ほんたまロゴ
2004.10.01 open 東京都公安委員会許可 第303260707011号

いいたま
インターネット古書店ほんのたまごミニコミ紙・miniたま
miniたまは、ほんのたまごとお客様を結ぶ架け橋として、ご注文書籍とともにお送りしています。
このページではminiたまのバックナンバーをお読みいただけます。

トップページへ戻る
バックナンバーをブログで読む
2017年10月第86号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
この9月13日、ペルーのリマで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の決定を、どう考えればいいのでしょう。2024年が仏パリ、2028年が米ロサンゼルスに同時決定した夏季五輪の開催地のことです。 こういう経緯がありました。2024年大会の立候補を申請したのは、パリとロサンゼルスのほかに独ハンブルク、伊ローマ、ハンガリー・ブダペストの5都市でした。しかし開催経費の増大などの理由で、ハンブルクとローマとブダペストが撤退。パリとロサンゼルスの一騎打ちの情勢となっていました。 さて――ここでIOCには懸念が出て来ました。「2024年がパリとロサンゼルスのどちらに決まっても、その次の2028年の立候補が1都市もなかったらどうするのか」。実際、2024年大会は立候補5都市のうち3都市が撤退しているのです。それはいわば五輪存続の危機ということになります。そこで両者に花を持たせる形で2024年をパリに、2028年をロサンゼルスに決めた。つまりこれは実質的な無競争落札でした。 東京が喜び、トルコ・イスタンブールとスペイン・マドリードが涙した2020年大会の決定までは、まだ候補都市がしのぎを削っていました。あれから4年、世界各国の経済情勢はさらに厳しくなっているということでしょうか。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第86回 岩波文庫で読む「怪人二十面相」
江戸川乱歩

江戸川乱歩が書いたジュニアミステリー「少年探偵シリーズ」は、かつて1億人のベストセラーと呼ばれた。1964年、ポプラ社から刊行が始まった同シリーズはロングセラーとなり、世代を超えて、多くの子供たちが心躍らせながら読みふけったものである。 例えば第1作の「怪人二十面相」。まさに手に汗にぎる、次のようなシーンを鮮明に覚えている。引用は、ポプラ社版を文庫化したポプラ文庫クラシック版「怪人二十面相」(2008年11月刊)から。 「先生はいま、ある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。しかし、先生の代理をつとめている小林という助手がおりますから、その人でよければ、すぐおうかがいいたします」(怪人二十面相から脅迫状を受け取った資産家が、明智小五郎探偵に電話で警護を依頼する場面。助手の小林芳雄少年が応対する) 「探偵の仕事には、通信機関が何よりもたいせつです。そのためには、警察にはラジオをそなえた自動車がありますけれど、ざんねんながら私立探偵にはそういうものがないのです。もし洋服の下へかくせるような小型ラジオ発信器があればいちばんいいのですが、そんなものは手に入らないものですから、小林少年は伝書バトという、おもしろい手段を考えついたのでした」 「窓の外、広っぱのはるか向こうに、東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう」(ともに、地下室に捕らえられた小林少年が脱出のために策を練る場面) 明智探偵と怪人二十面相の知恵比べもスリリングであるが、読むこちら側が当時は少年だったから、とくに小林少年の活躍には素直に感情移入できた。 その「怪人二十面相」がこのたび岩波文庫に入った。懐かしさに駆られ、一読してみて驚いた。ポプラ文庫クラシック版と細部が違うのである。前記の部分が、岩波文庫版ではこうなっている。以下、「怪人二十面相・青銅の魔人」(2017年9月刊)からそれぞれ引用する。 「先生は今、満洲国政府の依頼を受けて、新京へ出張中ですから、いつお帰りとも分かりません」 「探偵の仕事には、戦争と同じように、通信機関が何よりも大切です。軍隊には無線電信隊がありますし、警察にはラジオ自動車がありますけれど、私立探偵にはそういうものがないのです」 「窓の外、広っぱの遥か向こうに、東京にたった一箇所しかない、際立って特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ケ原にある、陸軍の射撃場を御存じでしょう。あの大人国の蒲鉾を並べたような、コンクリートの大射撃場です」 今回、岩波文庫版が底本としたのは、大日本雄弁会講談社版の「怪人二十面相」である。解説で吉田司雄がこう書いている――「『怪人二十面相』は江戸川乱歩が少年向けに書いた長編小説の第1作で、大日本雄弁会講談社発行の月刊誌『少年倶楽部』に昭和11年(1936)1月号から12月号まで掲載(7月号休載)ののち、加筆修正が行われ同年12月に大日本雄弁会講談社より刊行された」。 これに対して、ポプラ社版が底本としていたのは、戦後に光文社「痛快文庫」の1冊として刊行された「怪人二十面相」である。これは昭和22年(1947)6月に出版されている。その後、少年探偵団シリーズは光文社の雑誌「少年」で連載が再開され、旧作、新作含めて同社から順次、刊行されていくことになる。つまりポプラ社版のシリーズは光文社版を踏襲している。 1936年の大日本雄弁会講談社版(岩波文庫版)にあって、1947年の光文社版(ポプラ社版)から消えている言葉を拾い出してみよう。「満洲国政府」「新京」「戦争」「軍隊」「無線電信隊」「陸軍」「大射撃場」など。戦前、戦中の日本にはあって、敗戦後はきれいになくなった言葉ばかりだ。言葉が消えれば、言葉の持つ本来の意味も消える。つまり戦前版の「怪人二十面相」に流れていた軍国主義の空気が、戦後版では見事に排除されたということである。 昭和11年の日本において、怪人二十面相なる大敵と戦う明智という構図は何を意味していたか。言うまでもなく、欧米列強の連合軍と戦う日本の象徴であろう。怪人二十面相が奪おうとする宝石や美術品は、大東亜共栄圏を意味していると考えられる。とすれば、明智の助手の小林少年は少国民ではなかったか。 少国民とは銃後に位置する子供を指した語で、年少の皇国民のことである。重苦しい時代の雰囲気に満ちた小説であり、しかもこれが少年向けに書かれていることは今から思えばかなり危ない。ジュニアミステリーの衣をまとってはいても、小林少年にあこがれた子供たちが、将来は兵隊さんになってお国の役に立つ――そのことの素晴らしさをうたっているのだから。 戦後の改変が乱歩自身によるものなのか、出版社が乱歩の許可を得て行ったものなのかは判然としない。しかし昭和22年という戦後民主主義到来の時代を考えれば当然の処置であっただろう。今は平成29年。かつて少年の頃、ポプラ社版で少年探偵団シリーズに出会ったという人たちも50歳代から60歳代になっている。歳月の流れを感じざるを得ない。(こや)
2017年9月第85号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
青地に白い斜線の入ったマークや傘マークを何度、見せられたことでしょう。8月1日から21日まで、21日間連続で雨を観測した東京都心の話です。8月としては1977年の22日間に次ぐ長さとなりました。 今は降水確率や降水量で天気予報を発表しますが、40年前の1977年には「降水確率」などという言葉もありませんでした(1980年から気象庁が採用)。戯れに「雨1977」でネット検索すると、続々と雨にまつわる話題が出てきます。歌手の太田裕美が名曲「9月の雨」をヒットさせたのも、ヒラリイ・ウォー(吉田誠一訳)の名作ミステリー「事件当夜は雨」がハヤカワ・ミステリ文庫に収められたのも、1977年のことだったそうです。 振り返れば、今年の関東甲信越地方の梅雨明けは7月19日、夏休み直前のことでした。さあ――真夏の陽射しの下でプールだ、海だ、と楽しみにしていた子供たちにとっては、すっかり当てが外れたことでしょう。プールにやって来て「寒くて泳がずに帰ります」と、テレビのインタビューに答えている大人や若者の姿も見られました。 結局、8月に東京都心で雨が降った日は28日間に及びました。「これは観測記録のある1886年(明治19年)以降の最多記録に並んだ」と、読売新聞8月31日付首都圏版夕刊は伝えています。まさに「雨の夏休み」でした。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第85回 「2壜の調味料」ななめ斬り
ロード・ダンセイニ

ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord  Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)については、以前もこのコラムで書いたことがある(2013年5月)。そのとき取り上げた「2壜の調味料」について今回、再び書く。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。 物語は周知のように、イングランド南西部にあるノース・ダウンズの家で、スティーガーという男と同棲していた娘が失踪する。スコットランド・ヤードがずっと男の家の周囲を監視しているが、失踪した娘の行方は全く分からない。「スティーガーは娘の遺体を焼いていない」「庭に埋めてもいない」「娘が失踪してから一歩も庭の外に出ていない」「肉料理だけに使用する調味料ナムヌモを2壜、購入した」「庭に植わっている10本のカラマツの木を1本ずつ切り倒して薪にしていった」などの状況証拠をつかむが、肝心の娘の消息は謎のままである。殺人の証拠が見つからず、頭を悩ませるスコットランド・ヤードに対して、素人探偵のリンリーが突きつけた結論は次のようなものだった――「スティーガーが、殺した娘に調味料ナムヌモをかけて食べてしまった」。 ただし本文にはっきり書かれているわけではない。殺人の描写もなければ、人肉を食べる描写もないので、実を言えば真相は藪の中である。リンリーの結論は単に推測の域を出ない。にもかかわらず、この作品が名作とされるのは、結末の一節があまりにも見事だからである。「しかしなぜあの男は木を切り倒したのでしょうか」と首をひねるスコットランド・ヤードの警部に、リンリーはこう答えるのだ――「ひとえに食欲をつけるためです」。この一言が効いているがゆえに、ふと頭をよぎったはずの疑問もすべて忘れ去られてしまう。 疑問とは他でもない。娘の骨は一体どうしたのか?――ということである。人肉は食べても、さすがに骨までは食べないだろう。排水管から遺体の痕跡が発見されず、家の煙突から遺体を焼いた匂いが確認されなかったのだから、娘の骨は家の中に隠してあるのか? しかし警察が踏み込めば、骨はたやすく発見される。そうすれば逮捕は免れない。それでも男は、殺人の証拠を隠そうとして、娘の肉を必死に食べるだろうか。ミステリの証拠隠滅としては、いささか常軌を逸している。ということは「2壜の調味料」の遺体を食べる行為は、あくまで証拠隠滅のトリックではあるが、同時に何か他のものの象徴になっているのではないか。 ダンセイニという作家はどんな人物だったのか。アイルランドの小説家、劇作家であり、軍人でもあったが、デンマーク系旧家の貴族の出身である。だから名前に「卿」(ロード)がつく。作家としては、主に「影の谷物語」「エルフランドの王女」「魔法使いの弟子」などファンタジーの分野で大きな足跡を残した。つまりは幻想文学の書き手なのである。何しろ彼の代表作「ベガーナの神々」は、ケルト神話に基づいた多神教の物語なのだから。ミステリの執筆などは余技も余技であった。 ベガーナは「Pagan」からの造語。Paganには異教徒の意味があるが、これは一神教のキリスト教から見て多神教は異教徒ということだ。ダンセイニの生まれたアイルランドは、現在でこそローマ・カトリックが主流を占めるが、もともとはケルトという多神教が優勢だった土地である。その土地でダンセイニは、いわば多神教の創世記である「ベガーナの神々」を書いた。一神教と多神教の考察こそが彼のテーマだったのだろう。とすれば、ミステリとして書かれた「2壜の調味料」にも、その宗教理念が流れているのではないか。 人間が人間の肉を食べることをカニバリズム(食人嗜好)という。スティーガーが「娘はどこに行ったか」と聞かれて、「南アメリカ」と答えている(後に「南アフリカ」と言い直した)ことは興味深い。なぜならカニバリズムはスペイン語の「Canibal(カニバル)」に由来する言葉で、「Canib-」はカリブ族のことを指している。16世紀のスペイン人航海士たちの間では、西インド諸島(つまり南北アメリカの間)に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。そのためカニバリズムという言葉には「西洋キリスト教の倫理観から外れた、蛮族による食人の風習」の意味合いが強い。 ここで南アメリカを持ち出してくるスティーガーを、20世紀イングランドのノース・ダウンズに現れたカニバリストだとすれば、彼は西洋のキリスト教的倫理観に挑戦状を突き付けた蛮族となるだろう。しかしながら、聖餐という概念がキリスト教にあることを忘れてはならない。イエス=キリストは、最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与えて「パンは私の肉であり、ぶどう酒は私の血である」と語ったという。それにちなんでパンとぶどう酒を会衆に分け与えるキリスト教の儀式――それを聖餐と呼ぶ。聖餐はかつてカニバリズムと結びついていて、生け贄になる者は神の化身として殺されるばかりでなく、その肉を食べられ、血を飲まれることによって、自分を食べた者と同一化する。それは食べた者も食べられた者も神のからだになることであり、神の聖なるからだが再生するときに、共に復活することができる。 「2壜の調味料」が聖餐の物語だとすれば、食べられてしまった娘は、スティーガーの中で同一化し、やがて神のからだとなって再生するであろう。キリストの言葉が自分の肉と血にしか言及していないのに倣うかのように、骨は除外されている。スティーガーはパンのつもりで娘の肉を食べ、ぶどう酒のつもりで娘の血とナムヌモを飲んだのである。「2壜の調味料」は、ミステリの意匠をこらした死と復活の物語なのではないか。(こや)
2017年8月第84号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
体長約40センチ、体重約2340グラム(8月1日現在)の小さな体が、いま日本中に微笑みをもたらしています。東日本大震災のあった2011年に上野動物園にやってきたリーリー(父)とシンシン(母)の間に生まれ、このたび生後50日をめでたく迎えた東京・上野動物園の赤ちゃんパンダ(メス)です。 7月28日からは名前の募集も始まりました(8月10日まで)。インターネットでの応募だけで8月1日までに約12万件が寄せられているといいます。何かとごたごた続きの世相において、新しい命が一服の清涼剤になっているのでしょう。 1972年に中国からカンカンとランランが上野動物園にやってきて、日本のパンダの歴史が始まりました。以後、ホァンホァン、フェイフェイ、リンリン、シュアンシュアンらが来園、人気者になりましたし、チュチュ、トントン、ユウユウと、上野動物園生まれのパンダも登場しました。――と、歴代のパンダの名前を振り返ると、同じ音を重ねたものばかりです。そのためか、「今度の赤ちゃんには、ぜひ日本生まれにふさわしい名前を」という声も聞かれます。いちばん日本的な名前は「花子」でしょうか。日本最高齢を記録したゾウの名前も「はな子」でした。 名前は中国との協議を経て、最終的に9月下旬ごろ決定、発表されるそうです。いずれにせよ、赤ちゃんパンダがすくすくと育ってくれることを願ってやみません。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第84回 40年と2か月と5日目に
ギルバート・キース・チェスタトン

きわめて奇妙な話を読んだので紹介したい。長い年月にわたり、判で押したようにオフィスを出ては同じ道を通って家に帰って行った男(わたし)が、ある日どういう体験をしたかという物語である。 「40年にわたり、わたしは判で押したように右手に雨傘、左手にかばんを持って、レドンホール・ストリートにあるオフィスを午後5時半に出ました。40年と2か月と4日にわたり、横手のドアから出て、街路の左側を歩き、最初の角を左へ曲がり、3番目の角を右に曲がり、ここで夕刊を買ってから、道路の右側を道なりに進み、ゆるやかな曲がり角をふたつまわりこむと、メトロポリタンの駅のすぐ外側に出ますから、ここで帰りの汽車に乗りました。40年と2か月と4日にわたり、この順路を歩くのが、長年の習慣になっていました」 しかし40年と2か月と5日目を迎えたとき、「わたし」の身に異変が起きる。歩き慣れたはずの街路を歩いていると、なぜか息が切れて疲れて来たのだ。最初は体調不良かと思ったが、そうではなかった。いつもより道路の傾斜が急激になっていたのである。街路はいまや険しい斜面となって「わたし」の前にそそり立っていた。 この奇妙な話を書いたのは、誰あろうギルバート・キース・チェスタトン。「ブラウン神父」シリーズで有名な論客である。この春、出版されたアンソロジー「12の奇妙な物語 夜の夢見の川」(シオドア・スタージョン、G・K・チェスタトン他、中村融編、2017年4月、創元推理文庫刊)に、編者・中村の新訳で収められている。タイトルは「怒りの歩道――悪夢」。引用は同書に依った。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。 話は続く。「わたし」は街路で1人の男に出会う。男は「この街路は普段あなたが通っている街路だが、今このときは天国へ通じている」「野のけものや、馬や、犬は、自分の仕事以上のことをさせられ、それでいて、それにふさわしい名誉にあずからなかったら長くは耐えられません」などと不思議なことを語る。「道路だって同じことです。あなたはこの街路を死ぬまで働かせた。それなのに、それが存在することを記憶していなかった。もし健全な民主主義の持ち主であれば、たとえ異教のものであっても、この街路に花綵(はなづな)を垂らし、神さまの名前をつけたことでしょう。そうすれば、この街路はおだやかに世を去ったでしょう。しかし、この街路はあなたの不断の横暴にとうとう愛想をつかしたのです。そして跳ねあがり、天国に向けて頭を起こしているのです」と。 街路がレジスタンスを起こして斜面になってしまう――という展開には驚くが、それに続く結論にはさらに驚かされる。「街路というものは、行かなければならない場所へ行くものです」「来る日も来る日も、来る年も来る年も、それはオールドゲイト駅へ通じていました」と、当然のように反論する「わたし」に対して、男はこう諭すのだ。「道路があなたのことをどう考えていると思うんです? 道路はあなたを生きものだと考えるでしょうか? あなたは生きていますか? 来る日も来る日も、来る年も来る年も、オールドゲイト駅へ行き……」。その日以来、「わたし」は無生物というものに敬意を払うようになった。物語はここで幕を閉じる。 さて――この奇妙な話の教訓は何か? 無生物と生物には垣根がないという警句か。判で押したような日常を送る人間と街路とは何ら変わらないという逆説か。チェスタトンという作家の持っている資質から考えると、単に「無生物をけなげに扱ってはいけません」という教訓話を書いたとは思えないのだ。いろいろな見解があるだろうが、ひとつの見方を示したい。 1874年、ロンドン西部ケンジントンの不動産業、土地測量業者の家に生まれたチェスタトンは、やがてイングランド国教会の教義に引かれていく。イングランド国教会は、反カトリックのプロテスタントに見なされることが多い(異論もある)。そもそもカトリックから分派したプロテスタントには、その名前に「カトリックに抗議する」意味も込められている。ところが、かのチェスタトンは1922年、信頼できる神父の手によってイングランド国教会からカトリックに改宗してしまうのである。インターネット資料にはそう書かれている。 彼が「怒りの歩道――悪夢」をデイリー・ニュースに書いたのは1908年だから、まだ「ブラウン神父」シリーズも書かれていない時期である(第1短編集「ブラウン神父の童心」は1911年に刊行)。この頃からチェスタトンは、カトリックとプロテスタントの教義の間で、自らがどちらの道を歩むべきか、揺れ動いていたのではないか。 よく言われることだが、カトリックによる権威の順は神・教会・聖書・信者というもの。教会こそが神の恵みを取り次ぐ者であるから、聖書の上位に来る。それに対してプロテスタントは神・聖書・教会(信者の集まり)の順になる。聖書は神の言葉だから権威があり、それに基づいて教会が形成されるという考え方である。 チェスタトンの「怒りの歩道――悪夢」に通じるものがあるではないか。つまりカトリックとプロテスタントの「上位に来るのは教会なのか聖書なのか」という教義の違い。この奇妙な話に登場する謎の男が神であるとすれば、神の恵みを取り次ぐべき者は、果たして生物である「わたし」なのか、無生物である歩道なのか。いま私がいるこの歩道は正しい教義の道なのか。歩道が正しいとしたら、間違っているのは私ではないのか。チェスタトンは自らにそう問いかけているようにも読める。(こや)
2017年7月第83号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
「生き生きしている人たちは、小さい頃に好きだったことと今の活動を結びつけていることが多い。本当の宝物は、学生時代や入社後よりも、もっと前に隠れている」 ハッとさせる言葉です。これを発した人は哲学者でも宗教家でもありません。楠木新(くすのきあらた)。新著「定年後 50歳からの生き方、終わり方」(2017年4月、中公新書刊)が現在、売れに売れているキャリアコンサルタントです。 楠木の経歴は素晴らしいの一語に尽きます。1979年、京都大学法学部を卒業後、生命保険会社に入社し、人事、労務関係をはじめ総合企画、支社長などを経験。絵に描いたようなエリート社員でしたが、人生は順調なまま進みません。47歳の時に行き詰まり、体調を崩して長期休職を余儀なくされました。 ところがそのつらい経験が、自分を見つめ直すきっかけとなります。楠木は50歳から会社員と、ずっとやりたかった執筆活動を両立させ始めたのです。60歳となった2015年3月、定年退職。36年間の会社員生活を終えた後は、あえて再就職せず、「働く意味」を伝える講演や執筆活動とともに、「個人と組織」を論じる大学講師として活躍しています。 冒頭の言葉は、7月2日付読売新聞首都圏版朝刊の文化面「著者来店」の取材に答えたものです。「人生は後半戦が勝負」と力強く結んでいます。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第83回 まずはこの世に神ありき
シャーリイ・ジャクスン

シャーリイ・ジャクスン(1916-1965)の短編集「くじ」が2016年10月、ハヤカワ・ミステリ文庫に収録された。今回、読み返していて気づいたことがある。22編が羅列的に並べられた短編集とばかり思っていたが、全体がⅠからⅤの5つの章に分かれている(Ⅴはエピローグで、これについては割愛する)。ⅠからⅣまでの章に短編が数編ずつ配置されているのだが、それぞれの章の巻頭には、ジョーゼフ・グランヴィルの著作「勝ち誇るサドカイ人」からの引用文が置かれている。この「勝ち誇るサドカイ人」というのは、この「くじ」を訳した深町眞理子が付けたタイトルであって、通常は「現代のサドカイ教に打ち勝つ」とされている。 ジョーゼフ・グランヴィル(Glanvill,Joseph、1636―1680)とは誰か? ネットで検索すると、いろいろと情報が出てくる。以下にまとめてみよう。17世紀英国の哲学者、聖職者、心霊術研究家。デヴォン州プリマス生まれ。1658年にオクスフォード大学で修士号を取得した後、フロームの教区牧師(1662)、バースのアビー・チャーチの教区牧師(1666)、ウースターの聖堂参事会員(1678)を務めた。「教条主義の空しさ」(1661)で知られ、その中でスコラ哲学を批判しながら経験哲学を支持し、思想の自由を訴えている。1664年にはロイヤル・ソサエティーの特別会員となる。幽霊や魔女の存在、その他の霊的現象を否定するような合理的懐疑主義を攻撃し、「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を書いて、当時のベストセラーになった。 重要なのは最後の部分であろう。17世紀当時、魔女や幽霊の存在は迷信であるとの見解が世に広まりつつあった。グランヴィルはこれをサドカイ教(すなわち無神論)台頭の兆しと見て、大いに反発した。彼の主張によれば、魔女や幽霊を認めないのは消極的な無神論である。魔女も幽霊も実在するのであって、それは科学的に証明できる。グランヴィルはこの信念のもとに調査を開始し、英国史上初の心霊現象調査レポート「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を発表した。分かりやすく言えば、ポルターガイスト研究の嚆矢となるものである。 彼の本に収録された心霊現象事例は26件にも及ぶ。有名なのは1661年、イギリスのテッドワースで地方判事をしていたジョン・モンペッソン宅で起きたドラム楽器の騒音事件である。実際にグランヴィルはモンペッソン宅に乗り込み、誰も叩いていないのにドラムが音を立てたり、家具やイスがひとりでに動いたりするところを目撃したという。グランヴィルはなるべく客観的かつ懐疑的な研究姿勢を保とうと努めており、ゆえに「心霊現象調査の父」という称号を与えられることになった。 ジャクスンの「くじ」は、この「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を各章の冒頭に散りばめている。つまりはグランヴィルの無神論批判に共鳴し、その思想に捧げた1冊だと考えていいだろう。その観点から読むと、ジャクスンの作品は全く別の様相を見せ始める。例えば傑作「チャールズ」。息子ローリーが幼稚園に上がる。ローリーは毎日、幼稚園から帰ってくると、教室での生活ぶりを両親に伝えるが、とりわけ熱心に語るのはクラスの問題児チャールズのこと。このチャールズ、授業中に床を足で踏み鳴らしたり、女の子に汚い言葉を言わせたり、チョークを投げたりして先生からお仕置きを受ける。一時的に先生の言うことを聞く良い子に変身するが、すぐに元の問題児に戻ってしまう。やがてPTAの会合があって、ローリーの母親が出席する。ローリーの受け持ちの先生に「さぞかしチャールズのことではてんてこ舞いなさっているのでは」と尋ねると、意外な言葉が返ってくる。「チャールズ、ですか? うちの園には、チャールズという子はひとりもおりませんけれど」。 この物語は次のように読める。チャールズは、ローリーが空想の中で作り上げた架空の存在だった。両親に話したチャールズの問題行動は、すべてローリー自身が起こしたものだったのだ。先生は皮肉を込めて言う――「わたしども、みんなローリーにはとくに関心を持っております」と。両親や先生や生徒はローリーに翻弄される一方であり、まさに罪深きはローリーであった。ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」やトルーマン・カポーティの「ミリアム」、サキの「開いた窓」のように、子供の無邪気さや早熟さや残忍さによって大人たちが恐れ、悩み、破滅していく、アンファンテリブルの物語。 ところが作者ジャクスンがグランヴィル思想の信奉者だったとすると、これは単に嘘つきの子供の話というだけに留まらなくなってくる。チャールズはローリーにだけ感知できる騒がしい幽霊(つまりポルターガイスト)だったのではないか。周囲には暴れているのがローリーに見えても、実は彼に取り憑いた(つまり憑依霊)チャールズ仕業だったのではないか。とすればローリーは、まぎれもなく魔女や幽霊は存在するというグランヴィルの思想を体現していたのである。加害者ローリーはむしろ被害者だったかもしれない。 グランヴィル思想が説くように、まずはこの世に神ありき。そのことを信じようではないか。ジャクスンはそう主張しているように思う。「チャーリー」から読み取れることは、さらに無神論がはびこるようになった20世紀に対する痛烈な批判である。最近、これまで未訳だった著作が日本語でも読めるようになってきたが、シャーリイ・ジャクスンという作家の全貌はまだとらえられていない。この世には魔女も幽霊も存在する――それを前提として受け入れることが、ジャクスン文学理解への突破口を開く。(こや)
2017年6月第82号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
渥美清さんが亡くなって、21年。渥美さんといえば映画「男はつらいよ」です。シリーズ全48作が作られ、渥美さんが演じた「フーテンの寅」こと車寅次郎は、一世一代のはまり役となりました。 新著「『男はつらいよ』を旅する」(2017年5月、新潮社刊)を出した評論家の川本三郎は、この国民的映画について書いています。「『男はつらいよ』が好きだと言うのは、実は評論家として勇気がいる。『あんな、なまぬるい映画のどこがいい』と批判する評論家がいまだに多いから」。というわけで、いっときは「隠れ寅さんファン」と自嘲していたそうです。 川本も指摘していますが、北海道の小樽を舞台にした第5作「望郷篇」(1970年、長山藍子主演)あたりから、寅さんは日本各地を旅するようになりました。以後、このシリーズは本格的なロードムービーになっていきます。しかも寅さんの乗るのは鉄道が多い。1970年代には、日本各地に蒸気機関車やローカル線がまだ残っていました。 時代は移って2010年代後半の今、寅さんに匹敵する旅人はいるでしょうか? 各地にローカル鉄道は少なくなりましたが、ローカル路線バスがあります。テレビ番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」(テレビ東京系列)の人気コンビ――太川陽介、蛭子能収のお2人こそ、21世紀の寅さんと呼ぶべきではないでしょうか。毎回、マドンナも登場しますし。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第82回 アルコール先生 没後40年の巻
チャールズ・チャップリン

喜劇王チャールズ・チャップリンがこの世を去ったのは1977年。没後40年の節目に当たる今年、チャップリン関連本が日本でも続々と出版されている。新潮社は自社のロングセラー「チャップリン自伝」(原著1964年刊)の新訳を企画。チャップリンが自らの前半生を振り返る「若き日々」(2分冊の前編)が新潮文庫で刊行された(2017年4月)。中野好夫の定評ある名訳を引き継いだのは1955年生まれの翻訳家、中里京子。こんな一節がある。 「セネットはわたしを脇(わき)に呼んで、映画の制作手法を説明した。『シナリオなんてものはない――アイデアがひらめいたら、自然な出来事の流れに従うだけさ。追っかけが始まるまでね。それが我々のコメディーの本質なんだ』」 セネットとは映画監督でプロデューサーのマック・セネットのこと。キーストン映画社を率いて一躍、アメリカ映画界の寵児となった。間抜けな警官が登場し、右に左に追いかけっこをするサイレント喜劇「キーストン・コップス」シリーズを矢継ぎ早に制作した。イギリスのカーノー劇団の一員としてミュージックホールの舞台に出ていた演劇人チャップリンを見出したのは、このセネットである。1913年、契約を取り交わしてアメリカに渡ったチャップリンは、翌1914年にキーストンから映画俳優としてデビューする。記念すべき第1作は、ドタバタ喜劇「成功争い」であった。 チャップリンはセネットの手法を認めながらも、全て信頼していたわけではなかった。キーストン喜劇の「手法は目新しかったが、個人的に言って、追っかけは嫌いだった。それは俳優の個性を消し去ってしまう。映画についてはほとんど知らなかったものの、個性に勝るものがないことだけはわかっていた」「粗野なドタバタ喜劇のごちゃまぜにすぎないと感じた」と自伝で書いている。自分はイギリスの舞台で鍛えた演劇人で、キーストン流の十把一絡げの喜劇俳優とは違う――という矜持があったのだろう。 その矜持が実を結ぶ機会は、意外に早くやってきた。キーストン2作目(公開順は3作目)の「メイベルのおかしな災難」を撮影していたときのこと。日本チャップリン協会会長・大野裕之が、新著「チャップリン 作品とその生涯」(2017年4月、中公文庫刊)で書いている。「その歴史的な瞬間とは、1914年1月6日――雨の日の午後のことだった。チャップリンは、ホテルのロビーのセットの前にいた。セネットは葉巻をくわえたまま、『なんかここでギャグの欲しいところだな』と言って、チャップリンの方を振り向いて、『おい、なんでもいいから、なにか喜劇の扮装をしてこい』と言った。『とっさにそんな扮装など思いつくわけもなかった』が、『衣裳部屋に行く途中、わたしはふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組み合わせを思いついた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった』。そして、セネットに若いと言われたことを思い出し、小さな口髭をつけた」 「放浪紳士チャーリー」が誕生した瞬間だった。従来のキーストン喜劇とは異なるこのキャラクターは、それゆえに現場の監督たちとしばしば衝突したが、ニューヨーク本社からの1通の電報で状況は一変した。電報には「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」とあった。「大衆は、それまで見たことのなかったチャーリーの個性に魅了され、彼は瞬く(またた)間にスター・コメディアンとなったのだ」と大野は書いている。 以来、半世紀以上にわたって、チャップリン喜劇は世界中を席巻する。その様子は、多くの研究書に詳しく書かれているから割愛する。今回、チャップリン没後40年に改めて思うことは、日本および日本人はごく初期のころから喜劇王チャップリンの最大の理解者だった――という事実である。大野の前掲書がそのことを教えてくれる。 「1914年2月2日に映画デビューを果たしたチャップリンは、早くもその5か月後には、日本で初めて雑誌に登場した。日本初の映画評論雑誌『キネマ・レコード』の、1914年7月号に、変(へん)凹(ぺこ)君(くん)と名付けられ」紹介されたという。このときはまだ新人だから、記事にチャップリンの名前はない。「だが、特異な扮装と滑稽な歩き方から『変凹君』と名付けられたことをみても、日本でもまずその個性的な演技が注目されたことが分かる」 さらに「デビュー2年目の1915年になると、ますます他のコメディアンとは違うチャップリンのユニークさが意識され始めた。大勢が入り乱れて追いかけっこをする従来のドタバタ喜劇に対して、チャップリンは個性をじっくり見せる特異な喜劇役者であることに観客は気づいたのだ。このあたりから日本でもチャップリン人気はうなぎ上りとなっていき、酔っぱらい演技の巧みさと独特の歩き方から『アルコール先生』というあだ名が定着した」。日本公開タイトルも「チャップリンの拳闘」「アルコール先生公園の巻」という調子になっていく。映画のチラシでは、チャップリン映画を「グニャグニャ喜劇」と呼ぶケースもあった。一度見たら忘れられない、よほど強烈な個性だったのだろう。 共通するのは「変凹君」も「アルコール先生」も「グニャグニャ」も、チャップリンの容貌や演技の独自性に対して与えられた呼称だということだ。つまり彼は、はなから追っかけ喜劇の一登場人物ではなかったのである。アルコール先生は、その個性を貫いたまま、「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」「モダン・タイムス」などの傑作を世に問い、世界の喜劇王として88年の生涯を閉じた。(こや)
2017年5月第81号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
新規登録古本
某氏が語る「“街”を愉しむ極意!」五か条をお教えしましょう。 「一、まずは街の成り立ちを知るべし」。多くの人が関わり、いろんな変遷があって、今の「街」がある。地域の歴史を調べてからスタートするのもおすすめ。「二、路地にこそ、その街の個性がある」。大通りより脇道へ進路を変える。きれいに整えられたメイン通りにはない、そこで暮らす人たちの「顔」が見えてくる。「三、この街で暮らしている気分で歩く」。夕飯の材料でも買いに来たかの気分で、八百屋などに入ってみる。「四、好奇心を持って、景色を見直してみる」。東京に初めてきた人は、そびえ立つ高層ビル群に驚くが、数年も住んでいればそれは当たり前の風景と化す。好奇心を持って、ありふれた景色も少し角度を変えて見てみよう。「五、賢い靴選びで疲れしらず」。散策には履き慣れた靴で出かけたい。もう少し歩こうという気分にさせてくれる相棒を見つける。 含蓄のある教えです。高名な文学者の書いた東京散歩の本からの引用でしょうか?――いえ、実はこの五か条の語り部は「酒場詩人」の吉田類。イラストレーター、エッセイスト、俳人ですが、何よりもBS-TBSの長寿番組「吉田類の酒場放浪記」の出演者として有名でしょう。酒場詩人は街歩きも達人なのです。本人が責任編集した「吉田類の散歩酒」(2016年1月、主婦と生活社刊)から引きました。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第81回 「オリエント急行殺人事件」を新訳で
アガサ・クリスティー

アガサ・クリスティーの代表作「オリエント急行殺人事件(原著1934年刊)」がこのたび新訳で出た(安原和見訳、2017年4月、光文社古典新訳文庫刊)。再読して、面白いことに気づいた。作品の内容に触れるので、ご注意を。 オリエント急行の車内で金持ちの老人ラチェットが殺される。ラチェットは偽名で、実は逃亡中の極悪非道の犯罪者であった。彼がアメリカのアームストロング大佐一家の愛児を誘拐し、殺害した事件は世間を震撼させた。ラチェットを殺したのは誰か?「オリエント急行殺人事件」は、列車に乗り合わせた乗客全員が犯人という奇抜なトリックで知られるが、名探偵エルキュール・ポアロが乗客たちを評する場面が終盤にある。 「ここに集まった人たちは興味深い、なぜなら多種多様だから――このように階級も国籍もさまざまだと、そういう趣旨の(知人)の言葉でした。わたしもそのとおりだと思いましたが、あとでこのときのことを思い出して、こんなに多種多様な人々が一堂に会する状況が、ほかにあるだろうかと想像してみたのです。それで得た答えはこうです――アメリカ以外にはない。アメリカなら、さまざまな国籍の人間がひとつ屋根の下に暮らすこともありえます。イタリア人の運転手、英国人の家庭教師、スウェーデン人の乳母、フランス人の子守などなど。(中略)つまり、アームストロング家という舞台で、だれにどの役を与えればいいか考えていったわけです。劇の演出家がやるように」(安原訳) たとえ国籍や身分がバラバラでも、そうした人々が一堂に会することができるのがアメリカという国の特徴なのだ――とポアロは主張している。ボアロの主張はすなわちクリスティーの主張でもあろう。クリスティーはアメリカという国をどう思っていたのだろうか。 19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパからアメリカ大陸に移住する者の数は急速に進んだ。1870年代から第1次世界大戦までの約40年間で、ヨーロッパからの移民は約3000万人(うち2000万人がアメリカ合衆国。残りはカナダ、アルゼンチン、ブラジル、オセアニア)に達し、ピークを迎えた。アメリカ合衆国の帝国主義期を支えたのも、これらの移民であった。19世紀の移民はアイルランドや北欧が多かったが、20世紀に入ると南欧、東欧からの流れに重心が移った。それ以前の西欧、北欧系の移民を「旧移民」というのに対して、この南欧、東欧系移民は「新移民」といわれた。新移民はイタリア人などの南欧系、ポーランド人、ロシア人などの東欧系の人々、それにユダヤ人が多かった。まさに「オリエント急行殺人事件」的な状況が、アメリカという一国に到来していたのだ。 クリスティーが生きたのは19世紀末(1890年)から20世紀後半(1976年)のイギリスである。旧移民から新移民に主流が移る時期のアメリカには縁が薄いように思われるが、周知のようにクリスティーの父親はアメリカ人の実業家であった。行く道が開かれれば来る道も開かれる。ヨーロッパからアメリカに移住するのとは逆に、クリスティーの父親のような――成功したアメリカ人がヨーロッパに移住するというケースも、この時期どうやら多かったようなのである。 立教大学の磯崎京子は、論文「アガサ・クリスティーの見たアメリカ――伝記から探るアメリカ観の変容――」(2005年、立教大学「異文化コミュニケーション論集」vol.3所収)の中で興味深い指摘をしている。「19世紀末から20世紀初頭にかけては、成功したアメリカ人が憧れのヨーロッパに来ることが流行しており、一般のヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパにいるアメリカ人というとすべてお金持ちという単純な図式、しかも好意的な図式が出来上がっていたのであろう。新興国アメリカからやって来る成功したアメリカ人を、自分達の弟分として寛容に受け入れるという、精神的なゆとりと自信が当時のヨーロッパ人にはあったのではなかろうか」 1931年、クリスティーはオリエント急行で中東への旅に出た。そのときに遭遇したエピソードが面白い。磯崎はクリスティーの伝記本から引用しているが、孫引きしておく。イスタンブール出発後、洪水で立ち往生したオリエント急行の車内には、各国の乗客が乗り合わせていたが、アメリカ人のミセスの言動が一番、印象に残ったという。「いかにもあの国の人らしく」とクリスティーは彼女のことを書いている。ミセスは「アメリカならすぐに対策を講じるのに、ここではどうして何も手を打たないのか」と言い、新しい列車がやってきて乗り移ったものの、食物や暖房がないのを知るや、泣き出してしまった。磯崎はこの部分から「1930年代のアメリカ上流婦人のもつ、アメリカの近代設備・機能性・機動力への信奉への揶揄」を読み取っている。 アメリカは第一次世界大戦に勝ったことで、覇権主義的な勢力を伸ばし始めた。「オリエント急行殺人事件」は、ちょうどそういう時代に書かれている。クリスティーが実際に遭遇したアメリカの上流婦人は「オリエント急行殺人事件」のおしゃべりなアメリカ婦人、ミセス・ハバードのモデルになったと推察される。作中のアームストロング愛児誘拐殺人事件は、明らかに1932年に起きたリンドバーグ愛児誘拐殺人事件を意識していよう。 アメリカはいつ何が起きてもおかしくない物騒な国になってしまった。かつてアメリカに抱いていたクリスティーの好意が、苛立ちに変わってきたのがこの時期なのではないか。ヨーロッパから見たアメリカ批判――それが「オリエント急行殺人事件」という小説に結実したと思われる。(こや)
2017年4月第80号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
新規登録古本
1編の漫画が、いま静かなブームを呼んでいます。それを連載中のWEBマンガサイト「くらげバンチ」には、「止まらないわ涙」など、感動のコメントが続々と寄せられています。あまりの反響に、2016年9月~12月分をまとめた単行本の第1巻が、この2月に新潮社から出版されました。 その漫画は、タイム涼介作「セブンティウイザン」。「70歳の初産」という副題の通り、定年退職を迎えた65歳の夫と、70歳の妻の物語です。長い会社員人生を終えて帰宅した夫に、妻は「私、妊娠しました」と告げます。その日から、超高齢出産に向けて夫婦が力を合わせて努力していく日々が始まります。老若男女を問わず、涙なくして読めない物語ですが、ちょっと興味深い点に気づきました。出産に際し、女性と男性が何を思うかの違いです。 出産当日、待合室の夫の頭に浮かぶのは、自分が生まれてから今までの人生です。父に連れて行ってもらった釣り、就職、親の死、見合い結婚、長年連れ添ったペット、そして定年退職。つまり過去の記憶。一生懸命に生きてきた男性ほど、そうなるでしょう。それに対して、出産直前の妻は、生まれてくる子供に「あなたに会えることをずっと待っていました」と呼びかけます。つまり女性が見つめているのは未来へのビジョン。 しっかりした描き分けがされています。「セブンティウイザン」が男性にも女性にも受け入れられている理由は、ここにあるでしょう。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第80回 21世紀の私小説
岡田睦

岡田睦(ぼく)という作家について、まずはプロフィールを紹介する。2017年3月に出た岡田の著作「明日なき身」(講談社文芸文庫刊)から引く。「岡田睦(1932・1・18~ )小説家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同人誌『作品・批評』の創刊に慶應の友人たちと携わる。1960年『夏休みの配当』で芥川賞候補。3度目の妻と離婚後、生活に困窮し生活保護を受けながら居所を転々とし、『群像』2010年3月号に『灯』を発表後、消息不明」。 消息不明――つまり今回の著作刊行に関しては、講談社側が著者本人と連絡を取ることができなかったことが理解できる。消息不明の作家の本を出すには、どういった手続きが必要か。著作権法第67条に「著作権者不明等の場合における著作物の利用」の項目がある。「公表された著作物又は相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物は、著作権者の不明その他の理由により相当な努力を払つてもその著作権者と連絡することができない場合として政令で定める場合は、文化庁長官の裁定を受け、かつ、通常の使用料の額に相当するものとして文化庁長官が定める額の補償金を著作権者のために供託して、その裁定に係る利用方法により利用することができる」というものである。 「明日なき身」の親本――つまり単行本は2006年12月に講談社から出ている。当時、講談社はもちろん岡田と連絡が取れていた。2010年には短編の「灯」を自社の雑誌「群像」に掲載しているわけだから、当然その段階でも連絡は取れていただろう。その後、連絡が取れなくなった。2006年の単行本は「相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物」に当たるだろうし、2010年の短編は「公表された著作物」に当たるだろう。これらをまとめて文芸文庫で出版したいと思った講談社が文化庁長官に裁定を諮り、岡田のための補償金を供託するという条件で、出版という「その裁定に係る利用方法」を申請した。そういう流れであったと推察される。 講談社は2017年2月1日に、著作権法第67条の2「裁定申請中の著作物の利用」第1項の規定に基づく申請を行い、同項の適用を受けて今回の刊行に踏み切ったという。それは、「前条(注・第67条)第一項の裁定(以下この条において単に「裁定」という。)の申請をした者は、当該申請に係る著作物の利用方法を勘案して文化庁長官が定める額の担保金を供託した場合には、裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間(裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間に著作権者と連絡をすることができるに至つたときは、当該連絡をすることができるに至つた時までの間)、当該申請に係る利用方法と同一の方法により、当該申請に係る著作物を利用することができる。ただし、当該著作物の著作者が当該著作物の出版その他の利用を廃絶しようとしていることが明らかであるときは、この限りでない」。 奔放に生きている私小説作家の著作が、奔放さから一番遠くにあるかのような著作権法に左右されるというのも皮肉な話だが、要するに次のようなことだと思う。作者・岡田と何らかの連絡が取れるか、出版停止の裁定が出るまで、講談社は自社の文芸文庫版においてのみ「明日なき身」の刊行を許される。岡田と連絡が取れたときは、本人が嫌だと言えば別だが、承諾が得られればそのまま出版を続けられる。書店で見かけるか、文庫化の話を伝え聞いた岡田本人からぜひ連絡をしてきてほしい――講談社の担当編集者のそんな思惑も込められていようか。 以上のような経緯で刊行に至った同書には、前述の2006年12月に講談社から出た「明日なき身」所収の4編(「ムスカリ」「ぼくの日常」「明日なき身」「火」)と、2010年3月に雑誌発表された現状の最新作「灯」が収められている。「ムスカリ」の主人公はセイホ――生活保護を受けている。「毎月、5日が“セイホ”の支給日。2、3日前になると、きまって金がなくなる。コインだけになり、セブン-イレブンのむすび、最低1個100円のを、1日ひとつ喰うことになる。それも買えなくなって、何も喰わずひたすら5日を待つときもある。原稿は遅々として捗るが、その間原稿料がはいるわけではない」と、生活の窮状が綴られている。5編すべてが。 さすがに大正や昭和の時代に書かれた、借金取りに追われて夜逃げをする私小説とは違うが、おむすび1つ買えなくなる平成の私小説も、悲惨さでは負けていない。あるいは岡田ほど極端でなくとも、本が売れない、生活が窮状に陥っているという作家は増えてきているのではないか。 しかし小説から目を上げて考えてみると、同じような話を別の本で読んだことを思い出した。「お金がなくて、病院に行くことをガマンしている」「年金暮らしなので、食事は1日1回。1食100円で切り詰めている」。テレビのドキュメンタリー番組「NHKスペシャル」取材班がまとめた「老後破産 長寿という悪夢」(2015年7月、新潮社刊)にそうある。 この本に登場する高齢者たちは、決して自由奔放に生きてきた私小説作家ではない。定年までサラリーマンとして仕事をしてきた人もいれば、職人や商店経営者として人生を送ってきた人もいる。正直に誠実に生きてきた普通の市民が、いま老後破産に陥っている。年金や生活保護を受給していても生活破綻が避けられない。それが21世紀の日本社会の現実なのである。 社会の私小説化と呼ぶべきか、私小説の社会化と呼ぶべきか。気がつけば、まさしく岡田文学の世界が身の回りに満ち満ちている。そんな時代になってしまった。(こや)
2017年3月第79号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
福岡市の天神地区に「親富孝通り」という名物通りがあります。ここは10数年前まで「親不孝通り」という名前でした。 約350メートルの通りには、昭和40~50年代、近くの予備校に通う浪人生らが集まったといいます。ある喫茶店の主人が、勉強もせずに遊ぶ若者たちに「お前たちは親不孝者だ」とでも言ったのでしょうか。その冗談がきっかけで「親不孝」が使われるようになりました。バブル期にはディスコ客や暴走族など、本当の親不孝者が集ったそうです。警察の要請もあって、平成12年に「親富孝」となったのはいいのですが、同時に予備校の閉鎖などもあり、客足が遠のいていました。 昨年4月、かつてのにぎわいを取り戻したいと考えた住民や商店主らが、旧称の復活を呼びかけました。今年秋から始まる歩道のバリアフリー化や、街路樹整備に合わせて、標識も変更することになるそうです。17年ぶりに「親不孝」の復活です。 ネガティブは何でもいけないという風潮に一石を投じる話だと思います。豆腐を豆富と言い換えても事の本質が変わるわけではありません。「地名とは不思議なもので、ときには正よりも負に情緒が宿る」と、読売新聞2月21日朝刊の「編集手帳」も書いています。例として倉本聰脚本のテレビドラマの「悲別(かなしべつ)」「泣きべそ通り」が挙げられていました。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第79回 闇の奥に見えるもの
ジョゼフ・コンラッド

作品が雑誌に発表された1899年は、まだ19世紀だった。いつの頃からか「20世紀最大の問題作」と呼ばれるようになった。ジョゼフ・コンラッド(1857~1924)の代表作「闇の奥」(原題:HEART OF DARKNESS)である。それを含む短編集「青春、その他2編の物語」がまとめられたのは1902年。すでに20世紀に入っていた。 日本では4つの翻訳が出ている。中野好夫訳(岩波文庫刊、1958年)、岩清水由美子訳(近代文藝社刊、2001年)、藤永茂訳(三交社刊、2006年)、そして最新版が黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫刊、2009年9月)。「闇の奥」といえば長らく中野訳だけだった。21世紀に入ってから立て続けに新訳が刊行されるようになった。著作権が失効したからかもしれないが、発表後1世紀が経過して、ようやく「闇の奥」の本格的な研究が進んできた感がある。それだけ難物だったのである。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。引用は最新の黒原訳による。 ある日の夕暮れ、船乗りのマーロウが、船上で仲間たちに自分の体験を語り始める。若きマーロウは各国を回った後、フランスの貿易会社に入社し、アフリカの出張所に着任した。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。ここで奥地にいるクルツ(Kurtz、英語読みではカーツ)という代理人の噂を耳にする。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物だった。マーロウは、到着した隊商とともに中央出張所まで行くが、そこの支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かって来たが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。 マーロウは支配人、使用人4人、現地の船員とともにコンゴ川を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然、矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手に向かって長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手は死んだ。奥地の出張所に着くと、クルツの崇拝者である青年がいた。青年から、クルツが現地人から神のように慕われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、“The horror! The horror!”という言葉を残して息絶えた。この最期の言葉を、かつて中野は「地獄だ! 地獄だ!」と訳した。黒川訳では「怖ろしい! 怖ろしい!」とより直接的になっている。この言葉が「闇の奥」の核心であろう。物語は、クルツの婚約者にマーロウが遺品を届けに行くところで終わる。 さて――「闇の奥」を語るとなれば、どうしても映画「地獄の黙示録」について触れないわけにはいかない。監督のフランシス・コッポラが映画を作るに当たって、下敷きにしたのがコンラッドの「闇の奥」だということはよく知られている。コッポラは19世紀のコンゴの物語を、20世紀のベトナム戦争の世界に換骨奪胎した。立花隆が書いた名著「解読『地獄の黙示録』」(2002年3月、文藝春秋刊)を参考に、映画と小説とを比較してみよう。 コンラッドが小説で描いた槍で刺し殺される舵手や、クルツの崇拝者である青年といった存在は、コッポラの映画にも同じように登場する。立花が字幕スーパーの和訳にこだわる“unsound”という言葉があるが、これも出てくる。映画ではカーツ大佐殺害をウィラード大尉に命じた将校が「カーツは方法が不健全(unsound)だ」と語る。小説では支配人がマーロウにこう語る――「状況は危ういようだ――なぜこんなことになったかわかるかね。(クルツの)方法が不健全(unsound)だからだ」。そして“The horror! The horror!”は、映画でも小説でもカーツとクルツの最期の言葉として出てくる。 今回「闇の奥」を読み返してみて、むしろ「地獄の黙示録」との違いのほうが目についた。映画ではカーツを倒したウィラードはそのまま去っていくが、小説ではマーロウがクルツの婚約者に遺品を届けに行く。そのときマーロウは、彼女に向かってこんなことを言うのだ。「彼が最期に口にした言葉は――あなたのお名前でした」。 これは明らかに嘘である。クルツは「怖ろしい! 怖ろしい!」と口にして息を引き取ったのだから。しかし、それを聞いた彼女の反応のほうがはるかに異様で「怖ろしい」。マーロウはこう描写している――「小さな溜息が聴こえたと思うと、怖ろしいような響きの歓喜の声が、想像もできない勝利感と言いようのない苦悩の交じった声がほとばしって、俺(マーロウ)の心臓は止まりそうになった。『私にはわかっていました――きっとそうだと思っていました』」。 「闇の奥」のタイトルはアフリカ奥地の闇から来ている。文明と隔絶された未開の世界の怖ろしさを示しているが、真に怖ろしいのは西欧文明の闇ではないか。小説が発表された1999年当時、コンゴ川一帯はベルギー国王レオポルド2世の「私有地」だったという。コンゴ自由国と呼ばれ、1885年から1908年まで支配が続いた。現地民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断する――などの刑罰が情け容赦なく科された。 西欧人クルツが現地民に対して行った残虐行為が、現実のものとしてそこにあったのである。そのクルツが最期に自分の名前を口にしたと喜ぶ婚約者も西欧文明の闇を抱えている――コンラッドはそう訴えている。(こや)
2017年2月第78号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
こんなところに影響が出るとは思いませんでした。イランの映画女優と監督がアカデミー賞授賞式を欠席のニュースです。読売新聞1月28日付首都圏版朝刊はこう伝えています。 「米アカデミー賞外国語映画賞部門にノミネートされたイラン映画『セールスマン』の主演女優タラネ・アリドゥスティさん(33)が26日、ハリウッドで2月に行われる受賞作の発表と授賞式を欠席すると表明した」。理由は「トランプ政権がイラン人などへのビザ(査証)発給制限を検討している」という報道を受けて、人種差別だと抗議するため――とのことです。そして1月30日には、ついにその「セールスマン」の監督アスガル・ファルハーディも、同授賞式を欠席すると表明しました。 ファルハーディ監督は2012年の第84回アカデミー賞で、イラン映画(「別離」)に初の外国語映画賞をもたらした名匠です。ほかの作品も数回、同賞にノミネートされています。イラン国内での評価はもちろん高いのですが、どちらかと言えばアメリカで好意的にとらえられていました。 その監督と女優が、現政権への抗議のためにアカデミー賞の授賞式をボイコットせざるを得ない。そこまでアメリカは大変な状況に陥っているということでしょうか。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第78回 サラリーマン作家ここにあり
フランツ・カフカ

唐突だがクイズを1つ。次の論文の筆者は誰か? 「建築業界及び建築関連事業における社会保険の状況」(1909年) 「自動車個人所有者における保険の現況」(1910年) 「製材用電動鉋の傷害防止策」(1910年) ちょっとお堅いタイトルが並んでいる。これらはいずれも「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」の年報に掲載されたもの。同局のとある職員(第2書記官)が書いた。最初の2編は無署名、最後の1編には署名がある。誰か分からない? では次の作品の筆者は?――「判決」「変身」「審判」「城」「アメリカ」。いうまでもなくフランツ・カフカ(1883~1924年)である。 実は先の3つの論文の執筆者もカフカ。第2書記官としての仕事の一端だった。保険協会の職員カフカはとても有能だったのである。ドイツ文学者の池内紀は、カフカについてこんなことを書いている――「就職したときは『書記見習い』の肩書だった。すぐに正式の書記官になった。5年目で、わが国でいう係長になり、12年目に課長、14年目に部長に昇進。そんな経歴からもわかるとおり、有能な職員だった」「1919年にハプスブルク体制が崩壊してチェコ共和国が誕生したとき、オーストリア人幹部はいっせいに追い出されたが、カフカ課長は職にとどまった。欠くべからざる人だったからだろう。さらに部長に昇進する。能力とともに人柄を愛されていた」(引用はともに「となりのカフカ」池内紀著、2004年8月、光文社新書刊より)。 サラリーマンとしてのカフカについて、池内の著作を参考に少しおさらいしておく。彼の保険協会での勤務時間は、8時から14時までだった。これは当時のオーストリア帝国の官僚制がとっていた勤務システムで、シフトは早番と遅番に分かれていた。カフカは早番を希望した。朝が早く、昼休みはない。ぶっ続けに勤務するが、そのかわり午後早く終わるので、もう1つ仕事を兼業できる。 だから当時の役人たちは、ほかに内職や時間給の仕事を持っていたという。カフカの上司や同僚にも、ドクターの肩書を持つ者や、アマチュア歌人もいれば蝶の収集家もいた。「安い俸給の代償に考え出された制度だろう」と池内は結んでいる。公務員の兼業にうるさい現在の日本では、想像もつかない制度である。カフカの場合、勤め始めてしばらくは、仕事が引けてから父親の経営する「ヘルマン・カフカ商会」を手伝っていた。その手伝いを終えてから、夜中に小説やエッセイを書いていたのである。 カフカはこの保険協会に1908年から1922年まで勤めた。出世してからも、ずっと早番を通したという。創作の執筆の時間を確保するためであった。体調を崩さなければ、まだまだ勤めていたことだろう。1917年に吐血してからは療養生活を繰り返すことになり、しばらく休んでは職場に復帰し、仕事と執筆を並行するという日々が退職するまで続いた。 1916年、ずっと付き合っていた恋人のフェリーツェ・バウアーに、自作の短編が掲載された雑誌を送っている。同時に、自分が仕事でまとめた論文「1914年度保険支給業務報告」や「砕石機械における傷害防止策」が載っている保険協会の年報も送ったという。池内も指摘していたことだが、これはとても興味深い。文学者カフカは生涯、保険協会のサラリーマンとしての自分にも誇りを持ち続けた。だからカフカを論じる場合、文学者としての側面だけとらえていては本質を見誤ることになる。 代表作「変身」の冒頭を思い出してほしい。池内による新訳(2006年3月、白水uブックス刊)によれば――「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた」。衝撃的な出だしだが、読者ほど主人公は驚かない。自分の変身よりも、むしろ4時に鳴るはずの目覚まし時計が鳴らずに6時半になっていたことに驚き、セールスマンとしての出張の大変さについて嘆いたりする。そのことを池内は「となりのカフカ」の中でこう解説する――「ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語と思われがちだが、その変身自体は最初の1行で終わっている。むしろ主人公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わっていく」。まさに慧眼であろう。 言うなれば「変身」という小説は、主人公だけでなく周囲が変身する物語なのではないか。カフカは19世紀末の1883年にチェコのプラハで生まれている。世紀が切り替わる激変期に少年時代を過ごし、20世紀になってからはサラリーマン兼業作家として生きた。毎日を保険協会の仕事に明け暮れ、交友関係も書類を扱う役人や工場経営者や経理係が多かったはずだ。その生活がいかにこれまでの作家とかけ離れていたかは、19世紀の文豪たちの名前をここで出さずとも明らかだろう。 つまりカフカは作家であると同時に、20世紀になって誕生した産業社会によって管理されているサラリーマンでもあったということである。サラリーマンのザムザは目覚まし時計が鳴れば起きられたが、作家の(つまり虫に変身した)彼は起きられない。一家を支えるサラリーマンには優しかった家族も、作家には攻撃的になる。ザムザの変身を通じて、20世紀になって新しくなった社会と作家の引き裂かれた関係が露呈する。「変身」はまぎれもなく20世紀の小説なのである。(こや)
2017年1月第77号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
明けましておめでとうございます。旧年中はご利用ありがとうございました。本年も引き続き「ほんのたまご」をご贔屓いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。 唐突ですがクイズです。皆さんにも馴染みの深い新幹線の車内販売。ビールやコーヒーといった飲料やお菓子などが常時50種以上、ワゴンに積み込まれているそうですが、食べられないものが4つあるそうです。何でしょうか? 「日刊ゲンダイ」2016年12月21日発売号が書いていました。 2つは「月刊Wedge」と「月刊ひととき」。 どちらも株式会社ウェッジが発行する雑誌で、前者は社会、経済記事が多く、後者は旅のお供的な、なごみ系の内容になっています。3つ目がイヤホン。車内ではお静かに音楽などをお楽しみください――というわけでしょうか。 最後の1つが最近、新たにラインナップに加わって大人気の「スマートフォンなどのモバイル充電器」だそうです。出張や旅行の準備はしたが、ウッカリ充電器を持ってくるのを忘れた、という方が多いのかもしれません。いまのスマホ社会を象徴する商品です。 年始に旅行や帰省、出張を控えている方もおいでのことと思います。くれぐれもお忘れ物のないよう、お気をつけてお出かけください。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第77回 「女か虎か」VS「女と虎と」
フランク・リチャード・ストックトン/ジャック・モフィット

リドル・ストーリーというジャンルがある。直訳すると「謎物語」。物語の結末が作者によって明示されず、読者の想像に任せられる小説である。代表作とされるのは「女か虎か」(The Lady,or the Tiger?)であろう。作者のフランク・リチャード・ストックトンは、1834年にペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ、1902年に没した19世紀アメリカの作家。1880~90年代に活躍した(一時、彫刻技師でもあったらしい)。ユーモア小説を書き、怪奇小説も書き、冒険小説も書いたが、児童文学の著作が多い。 「女か虎か」は1882年に書かれている。もともとこの作品は「王の闘技場」(In the King's Arena)という題で、文学者のパーティ-における余興用の題材としてストックトンが用意したものだった。それがたいそう好評だったために、雑誌用(掲載誌は大衆向け雑誌「Century」)に書き直され、編集者によってタイトルが現在のものに付け替えられた。あまりにも有名な話だが、ウィキペディアを参考にしてストーリーを要約しておく。以下、未読の方はご注意を。 遠い昔のある国の話。身分の低い若者が王女と恋をした。それを怒った国王は、その国独自の処刑方法で若者を罰することにした。その方法とは公開闘技場に若者を連れ出し、2つの扉の1つを選ばせることである。1つの扉の向こうには餓えた虎がおり、彼が扉を開けばたちまちのうちに虎にむさぼり食われてしまう。もう1つの扉の向こうには美女がおり、そちらの扉を開けば罪は許されて彼女と結婚することが出来る。国王の考えを知った王女は、死に物狂いで2つの扉のどちらが女でどちらが虎かを探り出した。 しかし王女はそこで悩むことになった。恋人が虎に食われてしまうことには耐えられない。さりとて自分よりも美しくたおやかな女性が彼の元に寄り添うのもまた耐えられない。父に似た、誇り高く激しい感情の持ち主の王女は悩んだ末、若者に右の扉を指差して教える。若者は王女が示した扉を開く。中から出てきたのは、果たして――女か虎か? ここで物語は終わる。王女がどちらを選んだのかは書かれていない。この小説は読者の好奇心を大いに刺激した。ストックトンは「正解」を求める人々に悩まされることになった。そこで彼は続編として「三日月刀の督励官」を書いた。が、後日談として書かれたこちらの話も、最後は「別の国の王子が選んだのは微笑んだ女か、それともしかめ面をした女か」で終わる人を食ったリドル・ストーリーになっている。ストックトンは生涯、扉から出てきたのが女だったか虎だったかの真相を明かさなかったという。 結局、明快な解答は存在していない。そのため後年の作家たちによって様々な説が唱えられたが、中でもジャック・モフィットの書いた小説「女と虎と」(1948年、The Lady and the Tiger?)は、もっともスマートな解答であるとされる。取り上げてみたい(引用は紀田順一郎編「謎の物語」2012年2月、ちくま文庫刊より。仁賀克雄訳)。 モフィットによれば、ストックトンの物語の王とはヘロデ・アンティパスだという。「ローマ総督ポンティウス・ピラトの監督下でユダヤを支配していた彼は、父親が作ったローマの闘技場に似た闘技場を持つ、唯一の東方君主であり、彼もまた娘――正確にいえば継娘――を持ち、彼女に常識を超えた過度の愛情を抱いていた」。そしてこの娘が王女サロメだったというのである。 その前提でモフィットは「女か虎か」の結末をこう読む。若者が明けた扉には虎が入っていた。虎を見るやいなや若者は退き、電光石火のごとくもう一方の扉も開けてしまう。そして自分は2つの扉の間の閉じられた楔形の小空間に入り込み、両腕で大きな樫扉を盾にして身を守った。闘技場には扉から出てきた虎と女が残された。そのあとどうなったかは、いうまでもない――と。 ストックトンの「女か虎か」の問いかけが、結局のところ女心による決断がどちらだったかの問題だとすれば、モフィットの見解は王女そのものにエキセントリックな一面があったのだという話になる。聖書によれば、サロメはヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、「洗礼者ヨハネの斬首」を求めたほど気性の荒い女である。実は若者をめぐって王女サロメと犠牲になった女は三角関係の間柄にあった。処刑の日の前日、サロメは女には「虎でなくお前を選ばせる」と伝えたが、実際には虎を選ばせたのである。虎を選ばせたから、女を選ばせる選択肢が消えたかといえば、そうではない。若者は結果的に「女と虎と」両方を選ばされたことになる。 さらに問題は、とっさの機転で命拾いした若者である。ストックトンの作品では若者の人物像がほとんど描き込まれていなかった。モフィットはこの若者に、王女サロメと若い女の間を渡り歩きながら権謀術数を張り巡らせ、サロメと結婚して国家を手中に収めようとする野心家の役割を与えている。結局、虎からは逃れられた彼だが、危険人物と見なされて死刑に処されてしまう。それにしても、シンプルな寓話である「女か虎か」の問題提起をここまでふくらませた作者モフィットの力量は大したものである。 ジャック・モフィット(1901~69年)の本業は、前述の「謎の物語」の改題によれば、ハリウッドの脚本家。ケーリー・グラント主演の「夜も昼も」などで知られているが、とくにミステリー映画と関係が深いというわけでもないらしい。名作の続編を考えるのが得意だったようで、ほかにアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサンの「首飾り」の続編なども手掛けているという。(こや)
2016年12月第76号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
恒例の「2016ユーキャン新語・流行語大賞」の発表が12月1日に発表されました。今年の年間大賞には「神ってる」が選ばれました。 以下のトップテンは次の通り。「ゲス不倫」「聖地巡礼」「トランプ現象」「PPAP」「保育園落ちた日本死ね」「(僕の)アモーレ」「ポケモンGO」「マイナス金利」「盛り土」。いずれも今年話題になった言葉ばかりです。ネガティブな言葉よりもポジティブなほうを選びたくなるのは人情ですから、「神ってる」の大賞はまあ当然。それに「保育園落ちた日本死ね」「盛り土」などになると、当事者は表彰式に来にくいでしょう。日刊ゲンダイ12月2日発売号によれば、「ゲス不倫」の受賞者には、週刊文春の張り込み記者がマスク姿で登場したそうです。昨年まで同賞の選考委員だった鳥越俊太郎も、「よく考えたなあ」と感心していました。 大賞「神ってる」の受賞者は広島東洋カープの鈴木誠也選手。今年、広島を25年ぶりにセ・リーグ優勝へと導く大活躍を見せました。しかし――2試合連続サヨナラ本塁打を放った鈴木選手を「神ってる」と評したのはチームの緒方孝市監督です。自分で自分を「神」と言ったわけではない。監督が「栄誉は選手に」と言ったのかもしれませんが、ここは緒方監督と鈴木選手がツーショットで受賞してほしかったと感じました。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第76回 「尊い神聖な血」の物語
モーリツ・ジグモンド

モーリツ・ジグモンドと聞いて思い当たる読者は、相当なヨーロッパ文学通であろう。インターネットで引くと、おおむねこう紹介されている。 「1879-1942、ハンガリーの作家。神学や法学を学び、新聞記者となるが、父の仕事の失敗で窮乏生活を送った体験をつづった短編『七クロイツァー』(1908年)で一躍文壇に認められ、作家生活に入る。その後『泥金』(1910年)や『神の背後で』(1911年)などで、自然主義からリアリズム作家に脱皮する。各地を取材し、農村や地方町の支配層の退廃した生活、貧しい農民の姿をリアルに描き、社会派の作家として人気を博す。ハンガリー近代散文学の祖で、ハンガリー・リアリズムの創始者である。他の作品に『ウリ・ムリ』(1928年)、『幸せな人』(1935年)など」 そのモーリツの出世作「七クロイツァー」は、ずいぶん以前から邦訳されていて、最近では傑作短編アンソロジー「青ひげ公の城―ハンガリー短編集―」(バラージュ・ベーラ他、徳永康元編訳、1998年、恒文社刊)に収録されている。短い作品だが、一読して余韻を残す。内容に触れるので未読の方はご注意を。タイトルにあるクロイツァー(Kreuzer)は、オーストリア、ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スイスなどで19世紀後半まで使用された通貨の単位である。一般に額面の低い単位なので、コインは銅貨または低品位の銀貨で製造された。 母親と子供の頃の私が、午後の洗濯に使う洗剤を買うために、7枚のクロイツァー銅貨を探し回ることになる。3枚はミシンの引き出し、1枚は戸棚の中で見つかった。残る3枚がなかなか見つからない。かくれんぼの子供を捜すようなユーモラスな描写で銅貨探しの物語は進み、5枚目が掛けてある父の服のポケットから見つかり、6枚目が母自身の着ている服のポケットから見つかった。 残るは1枚、しかし辺りが暗くなってもこれが見つからない。そこに乞食が物乞いに来る。洗剤を買うにも1クロイツァー足りない貧乏暮らしで、恵んでやれないと母が言うと、何と乞食が1枚のクロイツァーを逆に施して去っていく。ついに7クロイツァーそろった。洗剤は買えるが、しかしすでに夜になっていて、洗濯をするために家を照らすランプの油が買えないのだった。切ない話だが、さらに切ないのは結末で、ことの次第に大笑いしていた母が急に咳き込み、吐血する。その「尊い神聖な血」を見ながら、私は他の貧しい誰にもまして、心から笑うことのできた母を誇りに思う――。 リアリズムというよりも、宗教観に満ちあふれた傑作であろう。乞食がくれた1枚の銅貨は実はキリストからの贈り物であり、母が吐いた血は磔刑に処されたキリストが流した聖なる血にも匹敵するのではないか。そんなことを思わせる物語になっている。 そこで思い出すのは、作者のモーリツ・ジグモンドが、晩年の1940年に「みなし子」という中編小説を書いていることだ。後期の代表作とされ、36年後の1976年にハンガリーで映画化されている。ラースロー・ラノーディ監督の傑作「だれのものでもないチェレ」である。VHSが長いこと廃盤になっていて、2015年10月にようやくDVD化された。ちなみに日本での劇場初公開は1979年3月、東京・神保町の岩波ホールであった。 さっそくDVDで何10年かぶりに見直してみたが、やはり素晴らしい映画だと感心した。それとともに、主人公のみなし子、チェレが劇中で歌うこんな歌が妙に気になった。「星の露を運ぶ黒い凧/僕の恋する黒い瞳の少女/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで」――おおむねこんな歌詞で、まだ見ぬ母に森で教わったという。チェレは優しくしてくれたおじいさんの前で快活に歌って踊る。調べてみたが歌詞の意味は分からない。しかしチェレの歌い方とは裏腹に、決して明るい歌ではないだろうと感じられる。 ずっと後だが、チェレが家を追い出されて並木道を歩いていると、行き倒れなのか自殺なのか、女性の死体を憲兵が片付けているところに出くわすシーンがあるからである。憲兵はチェレに「あっちへ行け」と言い、枯れたトウモロコシの木を山のように積み上げた馬車に、女の死体を乗せて運んでいく。つまり歌詞にある「今日は荷車に乗って」やって来るのは、まぎれもなく「死」なのである。 映画には、磔刑に処されたキリストを抱くマリア像も出てくる。おじいさんとチェレが教会に礼拝に行くシーンだ。キリストは「尊い神聖な血」を流している。そしてラスト近くのクリスマスの日。豚が喉をかき切られ、殺された後で血を抜かれ(またしても「尊い神聖な血」が流される)丸焼きにされて、食卓に供される。村人たちが集まって晩餐となるが、チェレは何も食べることを許されない。結局、みなし子チェレは引き取られたどこの家でも幸せがつかめずに、クリスマスの夜に一人、牛小屋で炎に巻かれて死んでいく。どこかにいるはずの母に「キリストに私へのプレゼントをくれるように伝えて」と祈りながら。 この映画を見ていると、まだ見ぬ母とチェレの運命が、「七クロイツァー」の私と母の運命にオーバーラップする。両作で母と子の立場は入れ替わっているが、その下敷きにあるのは聖母マリアとキリストの姿なのだろう。過酷な運命をたどるチェレや吐血する母の姿はとても悲惨だ。しかしキリストは死してのち復活する。われわれはそこに救いを求めたいと思う。(こや)
2016年11月第75号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
著作権について、ちょっと興味深い記事を読みました。ご存じのように、日本国内の場合、著作権の保護期間は著作者の死後50年です。それを過ぎればパブリックドメインとなり、自由に出版が認められることになります。これは1886年にスイスのベルンで創設された「ベルヌ著作権条約」によって定められた制度です。加盟国が守るべき最低限の期間ということですが、「条約で定める保護期間よりも長いものを国内法で定めることは可能」と付記されています。 世界各国の著作権保護期間を眺めてみましょう。標準の50年を採用しているのが日本、カナダ、中国など。長い例を見るとインドが60年、アメリカ、ロシア、韓国、EU加盟27か国などが70年、メキシコは何と100年です。 さて――ここで疑問。アメリカの著作物は、死後50年経っていてもパブリックドメインにはならない。するとそれを日本国内で日本語に翻訳する場合は、死後70年まで待つか、あるいは翻訳権を買わねばならないのでしょうか? ご安心ください。著作者の死後70年の保護期間を持つアメリカと50年の日本の間では、日本国内でアメリカの出版物を扱うときも、アメリカ国内で日本の出版物を扱うときも、ともに原則50年間の保護でいいという「相互主義」(いずれか短いほうの期間をそれぞれで保護)があるとのこと。翻訳文学ファンにとっても、翻訳出版社にとっても、ありがたいといえましょうか。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第75回 再びノーベルの風に吹かれて
ボブ・ディラン

10月28日、米国の歌手ボブ・ディランが本年度のノーベル文学賞を受けることを表明した。同13日の受賞決定後、ずっと沈黙を守り続けてきたが、ようやく本人が受諾の意向を明らかにした。10月20日までの経緯は「たまたま本の話」特別編で書いたので、今回はその補遺と、続報を。 まずは補遺から。特別編で「ディランの文学賞と平和賞のダブル受賞」の可能性について言及した。ディランのこれまでの音楽活動は、むしろ平和賞こそふさわしい。しかし1回、取るのだって難しいノーベル賞の複数受賞――そんなことが果たしてあり得るのか。その点の補足をしたい。 実はこれまでに6例あるのである。最多は3回。赤十字国際委員会(スイス)が1917年、1944年、1963年に平和賞を受賞している。理由は「平和と人道支援活動への取り組み」。平和賞だけは団体の受賞が許されていて、優れた活動であれば、多国籍団体であろうが賞を受けられる。そのことを象徴するように、一国に属さない国連難民高等弁務官事務所が平和賞を2回、受賞している。1954年と1981年、理由は「難民の保護と支援の取り組み」である。 しかし興味深いのは、個人で2回受賞した例であろう。4人いる。マリ・キュリー(フランス)が1903年に「放射能の研究」で物理学賞を、1911年に「ラジウムおよびポロニウムの発見」で化学賞を受賞している。ライナス・カール・ポーリング(アメリカ)は1954年に「化学結合の本性ならびに複雑な分子の構造研究」で化学賞を、1962年に「核兵器に対する反対運動」で平和賞を受けている。ジョン・バーディーン(アメリカ)は1956年に「半導体の研究およびトランジスタ効果の発見」、1972年に「超伝導現象の理論的解明」で共に物理学賞を受賞。フレデリック・サンガー(イギリス)は1958年に「インスリンの構造研究」、1980年に「核酸の塩基配列の解明」で共に化学賞を受けている。 ノーベル賞創設初期に特有の例かと思ったら、1970~80年代にも複数受賞が見られるのだ。物理学賞や化学賞を2回というのは、前回以上に優れた業績を上げれば当然であろう。キュリーの物理学賞と化学賞も、自然科学3賞の範疇に入るから納得できる。特筆すべきは、ポーリングのように本来は量子化学者、生化学者でありながら、後年の反核運動が認められて平和賞を授与された例である。日本でも、「死線を越えて」などの文学作品を書いたキリスト教思想家で社会運動家の賀川豊彦が、共に受賞は逸したが1947~48年に文学賞の、1954~56年の3年連続で平和賞の候補に挙げられていたことがある。今年のダブル受賞はなかったが、ディランが今後、平和賞を授与されて何か不都合があるだろうか。しかしスウェーデンやノルウェーの思惑と、ディランのそれとはまた別である。 ここからは文学賞受賞の続報になるが、ディランには、あるいは受賞辞退かという見方も出ていた。何しろ17日にはディランの公式ウェブサイトから「ノーベル文学賞受賞」の表記がなぜか削除されたし、スウェーデン・アカデミーも本人への直接連絡を断念した。沈黙を続けるディランに対して、「選考委員の一人であるアカデミーのペール・ウェストベリ氏は21日、地元公共テレビで『無礼で傲慢だ。こんなことは前例がない』と不快感を示した」(読売新聞10月23日付首都圏版朝刊より)という。 このウェストベリは選考委員の中でも重鎮的存在で、2012年3月には「安部公房は1993年に急死しなければ文学賞を受賞していたでしょう。非常に、非常に近かった」と、読売新聞のインタビューでペロッとしゃべってしまった人物である(候補者については50年間、秘匿されるのが原則)。重鎮がここまではっきり「傲慢だ」と言い切るのだから、それがアカデミーの総意を代弁していることは間違いない。選考委員たちのほとんどは、ディランから「受諾」か「辞退」か、いずれの連絡もないことに苛立っていたのである。 それから数日後の28日、ディランはアカデミーに自ら電話を入れた。その様子は各メディアで伝えられた通り、それまでの沈黙が嘘のような受賞歓迎の言葉であったという。読売新聞30日付首都圏版朝刊によれば、こんな具合だ。長いが引用する。 「発表によると、ディランさんはこの週、文学賞を選考したスウェーデン・アカデミーに電話し、『賞を受け入れるかって? もちろん。大変光栄だ』と答え、『受賞のニュースで言葉を失ってしまった』と説明した。アカデミーは、ディランさんが授賞式に出席するかどうかについては『まだ決まっていない』としている。ただ、ディランさんは英紙デイリー・テレグラフ(電子版)に対するインタビューで『もちろん。可能なら』と出席の意向を示唆した」 音楽と言葉で仕事をしているシンガーソングライターが「言葉を失ってしまった」とは驚くが、さらに驚くのは記事のそれに続く部分である――「アカデミーは今月13日に今年の文学賞を発表したが、ディランさんは約2週間にわたって沈黙を続け、直接の連絡をとることもできなかった。ディランさんは同紙が理由を尋ねたところ『私はここにいるよ』とだけ語ったという」。 「私はここにいるよ」は質問の回答になっていない。彼は2週間の間、コンサート会場にもいたし自宅にもいただろう。どうするのか、アカデミーに連絡を取れなかったはずはない。おそらくディランは辞退するつもりだった。周囲の説得もあり、受諾することになったのだと思う。ここには2週間にわたる「文学者ならではの葛藤」が読み取れるのではないか。(こや)
2016年10月「たまたま本の話」特別編・ノーベルの風に吹かれて――ボブ・ディランの文学賞受賞に思うこと (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
2016年のノーベル文学賞が10月13日、ボブ・ディランに与えられた。音楽家の受賞は初めてで、この受賞をめぐって世界中で驚きの声が噴出しているという。フランスのAFP通信(時事通信特約)は「文壇には『衝撃が走った』と言っても、まだ控えめな表現になるだろう」と、次のように報じた。 「ディラン氏の受賞は、戦慄(せんりつ)や当惑、歓喜といったさまざまな反応で迎えられた」「フランスの小説家、ピエール・アスリーヌ氏はAFPに対し、『ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた』と語り、選考委員会に対する憤りをあらわにした。『今回の決定は、作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだ。だが(文学)作品はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う』」。このほか、スコットランドの小説家、アービン・ウェルシュも厳しい批判も寄せている――と記事は書いている。

●常に賛否両論が巻き起こる賞

ノーベル賞、とくに自然科学3賞を除く文学賞、平和賞、そして1968年に創設された経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)の受賞者については、常に賛否両論が巻き起こる。今回もシリアの詩人アドニス、ケニアの小説家・批評家のグギ・ワ・ジオンゴ、ディランと同じアメリカの文豪3人――フィリップ・ロス、ジョイス・キャロル・オーツ、ドン・デリーロ、そして日本の村上春樹らが文学賞候補に上がっていたとされている。彼らをさて置いて音楽家にノーベル賞が行くのは納得できない、否定派の主張はそういったものだ。 実は、非文学者のノーベル文学賞受賞は過去にも何例かある。1902年のテオドール・モムゼンは「ローマ史」を書いたドイツの歴史家。1908年のルドルフ・クリストフ・オイケンはドイツの哲学者。1927年のアンリ・ベルクソンは名著「笑い」を著したフランスの哲学者。1950年のバートランド・ラッセルは「教育論」などで知られるイギリスの哲学者である。1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチル(「第二次世界大戦回顧録」を書き、その文才を評価された)にノーベル文学賞が授与されるに及んで、さすがに物議を醸すことになり、それ以降は小説家、詩人、劇作家に対象を限定しようということになった。 ちなみに1964年のジャン・ポール・サルトル(受賞辞退)も「存在と無」などの著作も多い哲学者だが、同時に「嘔吐」を始め20世紀文学の傑作を物している。記憶に新しい昨2015年の受賞者は「チェルノブイリの祈り」などで知られる、ベラルーシの作家でありジャーナリストでもあるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチだった。そして今年がシンガーソングライターである。とすれば、ノーベル文学賞の対象が「純粋な文芸作品に限る」という概念から変質して来ているのではないか。 そんなことを毎日新聞10月14日付首都圏版朝刊は書いていたし、前述のAFP通信の記事でも、インド生まれの英国人作家、サルマン・ラシュディが「素晴らしい選択」と評し、「ディラン氏は吟遊詩人の伝統の優れた伝承者だ」とたたえたと伝えられている。「心に残る彼の音楽と歌詞は常に、最も深い意味で『文学的』に感じられた」とツイートしたのは、自らもノーベル文学賞候補の有力な一人、ジョイス・キャロル・オーツ。「思い出してほしい、ボブ・ディランという名は、受賞に値した20世紀の偉大な詩人、ディラン・トマスにちなんでいることを」と談話を締めている。今回の決定を「英断だ」と称讃する声も多いのだ。

●「とにかく時代は変わりつつある」

さて――ここからは筆者の憶測ということになる。ボブ・ディランは、ひょっとするとノーベル平和賞候補にも上がっていたのではないか。デビューした1962年はまさにキューバ危機や公民権運動の時代。「風に吹かれて」(63年)で「いくつの耳があれば民衆の叫びが聞こえるのか」と歌い、「時代は変る」(64年)で「とにかく時代は変わりつつある」と訴えた。アメリカがベトナム北爆を開始した68年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」と叫び、ウォーターゲート事件に揺れた74年には「時には大統領だって裸で立ち尽くさねばならない」(「イッツ・オールライト・マ」)と語りかけた。この長年にわたる表現活動に対して与えられる賞として、ノーベル平和賞以上にふさわしいものはあるだろうか。 前例もある。1986年には、ホロコーストに関する大統領委員会の議長としてユダヤ系アメリカ人作家のエリ・ヴィーゼルに平和賞が与えられているし、2010年の同賞は、詩集などの著作も多い中国の人権活動家・劉曉波に贈られた。作家や詩人がすでに受賞している平和賞を、同じ表現者である音楽家が受賞してはならないという法はない。 ちなみに選考を管轄する団体は分かれていて、物理学賞、化学賞、経済学賞の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、生理学・医学賞はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、平和賞はノルウェー・ノーベル委員会が、文学賞はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。要するに平和賞以外の5賞はいずれもスウェーデンが選出する。平和賞だけはノルウェーが選ぶ。第1回ノーベル賞が発表された1901年当時、スウェーデンとノルウェーは同じ君主を仰ぐ連合国だった。ノルウェーが1905年に独立をしてからも、平和賞はノルウェーに委ねられている。中国の獄中にいる劉曉波の受賞の際は、本人不在のままオスロで授賞式が行われたのは記憶に新しい。 2016年は10月3日に生理学・医学賞、4日に物理学賞、5日に化学賞、7日に平和賞、10日に経済学賞が発表された。文学賞はスウェーデン・アカデミーが原則、木曜日に発表することになっていて、今年は13日。本来なら他の賞と同じ週のはずで、6日の木曜日こそふさわしかった。選考の都合で1週間、先送りすると直前になって発表されたのである。ここに「ノルウェーが選ぶ平和賞の結果を待ってから」というスウェーデン・アカデミーの思惑はなかったか、と思うのだ。 スウェーデンとノルウェーの間に「うちはAさんで行こうと思っているが、そちらはどうしますか。Aさん以外の人で行ってもらえませんか」という事前の話し合いや根回しがあったとは到底思えないから、同一人物を選ぶ場合も大いに考えられる。仮に6日の文学賞にボブ・ディランが選ばれ、翌日の平和賞もディランのダブル受賞となったら、世界は大変な騒ぎになるだろう。7日の平和賞にディランが選ばれたとしたら、文学賞は別の受賞者に授与することにしたい。13日の発表ならば時間的余裕があるので選考が練り直せる。スウェーデン・アカデミーがそう考えたとしてもおかしくない。平和賞は周知の通り、コロンビアのフアン・マヌエル・サントス大統領に授与された。これでディランの今年のダブル受賞の可能性はなくなった。われわれとしては心おきなくディランに文学賞を与えられる――。 以上はもちろん筆者の憶測に過ぎない。絵空事かもしれない。はっきりいえることは、これが文学賞でなく平和賞になろうが、ダブル受賞しようが、どちらの受賞も逃そうが、ボブ・ディランの音楽の真価は全く揺るがないという事実である。

●依然、沈黙を貫くディラン本人

さて、肝心の問題――。ディランは今回の受賞を受けるのかどうか。発表後、彼はコンサート会場でも今回の受賞について沈黙を貫いている。スウェーデン・アカデミーも17日に、ディランへの直接の授賞連絡を断念したことを発表した。代理人やツアーマネジャーとは連絡がついたが、本人が捕まらないのだという。受賞辞退の可能性も考えられ、12月10日、ストックホルムの授賞式の場に彼が立っているかどうか、今のところは分からない。 受賞辞退となれば、文学賞では史上3人目となる。1人目はソ連のボリス・パステルナーク(1958年)、2人目は前述のサルトルである。パステルナークの場合は「ソ連当局によって辞退させられた」のが実情だったから、正確にはサルトルに次ぐ2例目となる。サルトルは辞退の意思をスウェーデン・アカデミーに伝えてきたが、ディランは「辞退」という声明すら出していないから、このままいけば受賞「無視」という1例目になるかもしれない。 10月16日付の電子記事「日刊SPA!」に面白い見解が載っていたので、紹介したい。ディランの沈黙についてこう書いているのだ。「こうした状況をある程度予想していたのが英紙ガーディアンだった。10月13日に配信された記事で、イギリスの小説家、ウィル・セルフの見解を紹介している。セルフによれば、ディランはサルトルにならって受賞を辞退するだろうというのだ。爆弾や武器によって築いた財産から生まれた勲章を手にすることは、かえってディランの価値を貶める。それが彼の理屈だ」 しかしディランは、賞という賞を一切受けないという人物ではない。実際、2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響を与えた」としてピューリッツァー賞特別賞に選ばれた。レコードデビュー50周年を迎えた2012年には、アメリカ大統領のバラク・オバマより大統領自由勲章(文民に贈られる最高位の勲章)が授与された。この2つは受けている。ではなぜ今回、彼は頑なに沈黙を貫いているのか。 「日刊SPA!」は「ディランはノーベル賞にシラけている」と、その理由を指摘する。「そのひとつに、ディランがある時期からCDに歌詞カードを付けなくなったことが挙げられる。日本語盤ライナーには詞の対訳のみ掲載されているが、原盤には歌詞に関する情報が全く存在しない。もちろん公式サイトで全て確認できるから必要ないのもあるだろうが、最大の理由は、音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している点だろう。彼の神格化に貢献した“Dylanologists”(ディラン学者)の存在こそが、ミュージシャンとしてのディランを悩ませている皮肉」。ユニークな見解であろう。 そういえばスウェーデン・アカデミーのサラ・ダウニス事務局長も、授賞理由に「偉大なる米国の歌謡の伝統の上に立って、新しい詩的な表現を創造してきた」ことを挙げていた。詩が強調された授賞に、音楽家ディランは複雑な思いを抱いたのかもしれない。そのダウニス事務局長は17日、スウェーデンのラジオ番組で、ディランが12月10日に「来るか来ないかにかかわらず、彼の受賞を祝う。私は出席してくれると思う」と述べ、出席しない場合は「別の何らかの方法で賞を授与する」考えを示した――と共同通信は伝えている。 ノーベル賞という世界の大きな「風に吹かれて」、思うままをつづってみた。ご一読を心より感謝します。
(2016年10月20日、こや)
2016年10月第74号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
読売新聞9月21日付朝刊の文化面を開いて、「へえー」と感心された方もいらっしゃるのではないかと思います。「歴史の年月日 正確な表記を」のタイトルで、国際日本文化研究センター名誉教授・笠谷和比古の興味深いエッセーが載っていました。日本近世史が専門の立場から、西暦の年と和暦の月日を単純に合体させてはいけないと警鐘を鳴らしています。 例えば有名な赤穂浪士の討ち入りがあったのは元禄15年12月14日。元禄15年は1702年に当たります。ではその日を1702年12月14日と書いていいのか。「誤っている」「擬似西暦だ」と笠谷は書きます。「討ち入り事件は、正確な西暦だと1703年1月30日の出来事なのだ」と。 エッセーでは詳しく触れられていませんが、現在使われている西暦はグレゴリオ暦という太陽暦です。太陽暦は地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にした暦で、ずれの修正のために約4年に1回、閏年を挿入します。和暦は、元号とそれに続く年で表現する紀年法で、645年に孝徳天皇が制定しました。両者の間で日にちにずれが生じるのは当然なのです。西暦と和暦が統一されるのは1873(明治6)年からです。 なるほど、昔見た忠臣蔵映画で、初冬にしては大雪が降っている理由が分かりました。あれは12月14日の雪ではなく、年が明けて1月末の酷寒のさなかの雪だったのですね。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第74回 砂漠のリアリズムを求めて
安部公房



最初にちょっと面白いデータをお目にかける。安部公房が1958(昭和33)年に「キネマ旬報」誌で選んだ、その年公開の外国映画ベストテンである。 1958年といえば、日本の映画館の観客動員数が11億2700万人と戦後最高を記録した年だ。そんな映画産業の絶頂期に、安部の選んだ外国映画10本は次の通り。1)眼には眼を2)サレムの魔女3)地下水道4)手錠のまゝの脱獄5)黒い罠6)スパイ7)白夜8)くたばれ!ヤンキース9)私に殺された男10)先生のお気に入り。ちなみに各選者の票を集計して発表された、この年のキネマ旬報外国映画ベストテンは1)大いなる西部2)ぼくの伯父さん3)老人と海4)眼には眼を5)鉄道員6)死刑台のエレベーター7)崖8)鍵9)サレムの魔女10)女優志願――だった。 安部の選出と重なっているのは2本のみ。選評で安部はこう書く。「7位以後は、選ぶものがなくなって、本来なら何も書かないままにしておくべきだけれども、いずれ選ばれるようなことはあるまいと思ったから、少少、無責任な選択をしたが、7位以下どころか、上位に選んだ2作以外はぜんぜん選考からもれて、私の批評眼はまだ曇らされず、平均化されてもいないことがわかり、たいへんうれしかった」。 この頃は各人が選評を書く前に、全体の集計による選考結果がすでに知らされていたのであろう。いささか挑発的な書き方になっているのは他でもない。安部は当時「群像」誌上で映画時評を連載していた。やがて「裁かれる記録」として1冊にまとまるものだが、さすがに新興芸術運動や前衛文学のトップランナーらしく、専門の映画評論家とはまた違った角度からユニークな映画論を展開していた。その彼が日本の映画批評の権威であるキネマ旬報に呼ばれ、実際にベストテン選出に携わってみて、彼我の評価のあまりの違いに戸惑ったのだろう。安部が同誌でベストテン選出に携わったのは、後にも先にもこれ1回きりであった。 ところで安部が1位に挙げている「眼には眼を」は、言うまでもなくアンドレ・カイヤット監督の名作である。1950年代のシリア。現地の男が病気の妻を病院に運んだが、時間外だったので医師は診療を拒否する。代わりに同じ病院の若い医師の診療を受けたが、妻は亡くなってしまう。診療拒否した医師と、妻を亡くした男。その2人が灼熱のシリア砂漠で繰り広げる、何とも陰鬱な心理劇である。どちらも砂漠からついに脱出できないことが暗示されている。 素晴らしい映画であることは間違いないが、なぜ安部はそこまで「眼には眼を」に肩入れするのか。その理由を考えていたら、初期中編「壁――第一部 S・カルマ氏の犯罪」に行き着いた。重要な鍵として砂漠が登場するのである。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。引用は安部公房「壁」(1988年12月改版、新潮文庫刊)より。 ある朝突然、名前を無くしてしまった「ぼく」は病院に駆け込むが、待合室でふと眺めたスペイン雑誌の1ページに引きつけられる。そこにはこんな風景があった。「砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景が頁いっぱいにひろがっていたのです。砂丘にはひょろひょろした灌木、空には部厚い雲が箱のように積み重なっていました。人影はありません。家畜はおろか、カラスの影さえ見えません。曠野を一面に覆う草は針金のようにやせて短くまばらで地面がすけて見えるほどです。草の根もとには砂がさらさらと風に流れてひだをこしらえています」。「ぼく」はこの風景を自分の内部に吸収してしまい、ラストでは無限の曠野の中で静かに成長する壁と化す。 「S・カルマ氏の犯罪」が発表されたのは「近代文学」1951年2月号。カイヤットの映画が公開されるよりも7年早い。その後、芥川賞を受賞したことで同作は文学史に名を残すことになるが、本質的には日本の主流であるリアリズム文学ではなく、寓意に満ちた前衛小説である。かたや「眼には眼を」には動物の死骸を漁るカラスも登場するし、医師と男の砂漠の道行きにはリアリズム描写に不可欠な渇きや飢え、灼熱の気候といった切実な問題もつきまとう。つまり「S・カルマ氏の犯罪」との相違点のほうが際立つのだ。 しかしそうであっても、安部公房はこの映画に衝撃を受けたのではないか。かつて自分が非リアリズム文学の設定として導入した砂漠でさえ成立する、リアリズム映画の舞台として、シリアの砂漠の環境を眼前に突きつけられたことに対して。ここには観念を超える過酷な現実がある。砂漠を描くのだったら、やはり細部のリアリズムを克明に描写していくことは避けられないのではないか。 「眼には眼を」を見てから4年後の1962年6月、安部は自らの代表作となる書き下ろし長編「砂の女」を発表する。海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語である。逃亡と失敗を繰り返していた主人公は、最後に砂の力学を応用した「溜水装置」を考案する。砂の穴の中にいながら、水がいつでも手に入るようになったのだ。渇きが解消された彼は、脱出の機会が訪れてもついに逃げ出さず、やがて7年が経ち、失踪人宣告を受ける。 寓意に満ちた小説でありながら、その描写は科学的であり写実的である。安部は執筆に当たって、山形県酒田市の砂丘の村落に実際に取材に行き、砂の特質や部落の生活について綿密な調査を行ったという。「S・カルマ氏の犯罪」ではとらえられなかった砂漠のリアリズムをついにつかんだのだ。傑作「砂の女」を生んだ最大の要因は、あるいは映画「眼には眼を」との出会いだったかもしれない。(こや)
2016年9月第73号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
新規登録古本
この夏はリオデジャネイロ五輪にプロ野球、高校野球と、すっかり「スポーツの夏」の趣がありましたが、忘れてはならないことがあります。それは、「ポケモンGO」の夏でもあったということです。
スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」の配信がスタートしたのは7月22日。小中学校が夏休みに入るのとほぼ同時のことでした。「ポケモンGO」はご存じのように、カーナビゲーションシステムなどに用いられている、人工衛星を利用した全地球測位システム(GPS)を利用して、ポイント地点に現れるバーチャルのポケットモンスターたちをゲットしていくゲームです。実際にやってみると、これがなかなか面白く、子供も大人もハマるのがよく分かります。
楽しく遊ぶ分には最適のツールなのですが、さっそく問題が出てきました。夏休みということもあって、夜遅くまでポケモンを探して野外を歩き回る子供たちが急増したのです。「『ポケモンGO』を巡り、警視庁が7月22日の同ゲーム配信開始から8月28日までの1か月余りの間に、東京都内で少年計553人を補導していた」と読売新聞8月30日付首都圏版夕刊は伝えています。
何ごとも度を過ぎてはいけません。子供だけではありません。背広姿のサラリーマンが、スマホを見ながら夜の公園をふらふらと歩き回る様は、ゾンビ映画さながらの光景ですよ。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第73回 カストリ酒と母の日と
上林暁



1999年9月に刊行されて長らく品切れだった「禁酒宣言」が2015年9月、「ちくま文庫30周年記念 復刊フェア2015」で蘇った。私小説作家・上林暁の書いた、酒場が登場する短編小説13編を収めている(坪内祐三編)。戦後すぐの上林文学といえば、いわゆる病妻ものの作品で有名だが、文芸評論家の保昌正夫によると、1946年(昭和21年)に妻を亡くしてからはすっかり飲酒にふける生活に陥ったらしい。酒にまつわる小説がそのころから増えていく。坪内が引用している部分(講談社文芸文庫「白い屋形船/ブロンズの首」巻末の保昌正夫「作家案内」)の孫引きになって恐縮だが、こんな具合である。
「自筆年譜の昭和22年に『この年初頭より酒を過ごしはじむ』とあるのには、『嬬恋い』の情もからんでいるだろうか。『過ごしはじむ』は、ただ『やり始めた』にとどまらず、文字どおり『過ごす』ことになっていったようだ。作品にも『禁酒宣言』(昭24)、『酔態三昧』(昭和25)などがあらわれる。高血圧となり、節酒を心がけたが、昭和27年正月、軽い脳溢血となり、絶対安静4週間。以後3年、禁酒した」
まさに命がけの作家人生であろう。私小説といえば身辺雑記を綴るものという認識はここでは通用しない。この時期は、上林が私小説作家から無頼派作家へと変貌を遂げつつあった文学的な成熟期に当たるのではないか――そんな気もする。傑作ぞろいの「禁酒宣言」の中でも屈指の名作である表題作を、ここで見てみよう。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
主人公の「武智」(つまり上林)は妻を亡くしてから酒に溺れ、翌日は必ず二日酔いに襲われる生活を送っている。1年にどのくらい飲むかと言えば、昨年(昭和23年)閏年366日のうち一滴も飲まなかった日は98日。あとの268日(上林は258日と書いているが、計算違いか)は多かれ少なかれ酒を飲んでいた。週に2日弱は休肝日を取っているわけだから、特に多いというほどではないかもしれない。上林の場合、問題は家の外で長時間にわたって大量に飲むことだ。しかも今年(昭和24年)になると酒を飲む回数も飛躍的に増えている。「5月が早や終ろうというのに、酒を飲まぬ日と言っては、たった4日しかないのです。(中略)この勢いで行ったなら、果てはどういうことになるのでしょう。恐しいほどです。それも、晩酌に1杯という程度なら、毎晩でもいいのでしょうが、深酒、梯子酒、酔いつぶれ、どうして家に帰ったかも覚えないのが、毎日のことなのです」。
今の上質な酒ではない。飲むのはいわゆるカストリ酒であろう。第2次世界大戦後の酒不足の世相の中で、昭和21年ごろから粗悪な密造焼酎が出回ったことがある。原料や出所が全く不明、極端な例では、人体に有害で失明や中毒死の危険もあるメチルアルコール(燃料、工業用の素材)を水で薄めたものまで売られる始末。これらの代物が俗に「カストリ」と総称されたため、一般にもカストリ=粗悪な蒸留酒というイメージが定着した。3号(合)でつぶれる「カストリ雑誌」の俗称はここから来ている。ちなみに本来の「粕取り焼酎」は決して粗悪な代物ではないという。
その直後の昭和22年、政府によって敷かれるのが「飲食営業緊急設置令」である。米や麦など主要食糧の配給および消費を規制する「主食配給制」は昭和15年に始まり、戦争中と敗戦後に強化された。主食の遅配が進んだために、政府はさらに「飲食営業緊急設置令」を発して、販売できる飲食店を外食券食堂だけに制限した。しかし裏では隠れてのヤミ酒やヤミ米の販売が横行していたことはご存じの通り。そのあたりの世相についても、「禁酒宣言」で次のように押さえられているのが注目される。
「料理飲食店禁止の政令が出て間もなくの頃でした。小生は仕事場通いの行きずりに、ふと或る喫茶店に寄ったのです。店の主は年配のマダムでした(中略)。その時、紅茶茶碗でウィスキイを飲んでるところへ、警官に踏み込まれ、小生もマダムも共々、交番へ引っ立てられて行ったのです」。結局、さんざん油を絞られた末、2人とも釈放になるのだが、外食券食堂でない喫茶店でヤミ酒を飲んでいたわけだから、これは事情聴取されても当然であろう。なお、この「飲食営業緊急措置令」は昭和24年には解かれ、料理飲食店の営業が再開された。喫茶店もバーも焼き鳥屋も営業規制がなくなって、自由販売できるようになったわけである。昭和24年ごろから上林の酒を飲む頻度が飛躍的に高まったのも、そのことが影響しているかもしれない。
上林自身は身辺雑記を書き綴っているつもりでも、この「禁酒宣言」という小説は実に奥が深い。主人公・武智の振る舞いや思いが、そのまま戦後文化史につながっているのだ。母の日に触れたこんな一節もある――「5月8日だったかに『母の日』なる催しがありました。外国から流行して来た催しだと聞きました。母ある者は赤い薔薇を胸につけて、母の愛を讃え、母なき者は、胸に白い薔薇をつけて、亡き母の慈しみを偲ぶ趣旨だったようにおぼえています」。
調べてみると、日本では大正2年に青山学院で女性宣教師たちによる母の日の礼拝が行われた。その後、昭和6年に結成された大日本連合婦人会が皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」とし、昭和12年には森永が第1回「森永母の日大会」を豊島園で開催したが、なかなか普及しなかったという。アメリカの風習にならって、日本でも5月第2日曜日に母親にカーネーションを贈る習慣が始まったのが、まさしくこの年――昭和24年だったのである。(こや)
2016年8月第72号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
8月5日(日本時間6日)、第31回夏季五輪ブラジル・リオデジャネイロ大会が始まりました。史上最多の205の国と地域が参加した開会式を見ていて、言い知れぬ感動を覚えました。
感動の理由はいくつもあります。南米大陸初のオリンピックであること。開催国の現職大統領が弾劾され停職中という政治的混乱の中で開催にこぎつけたこと。組織的なドーピング問題に揺れたロシア選手団も一部を除き参加が認められたこと。日本選手団が日の丸とブラジル国旗の小旗を持ちながら入場行進したこと。
しかし何といっても感動したのは、開催国のブラジルの入場に匹敵する歓声を浴びた「難民選手団」の参加です。18歳のシリア人少女、競泳女子のユスラ・マルディニ選手が、わずか1年前、母国を離れて転覆しかけたボートを押しながらギリシャのレスボス島にたどり着いた壮絶な体験は、国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長を突き動かしました。その結果、オリンピック参加標準記録をクリアした同選手ほか、シリアや南スーダン、コンゴ民主共和国などの選手10人の参加が認められ、競泳、陸上、柔道などの競技に「難民選手団」として出場できることになりました。
これが平和の祭典、オリンピックなのです。心から応援したいと思います。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第72回 通路は相手の方から掘る
安部公房・安部ねり

長年、のどに刺さった小骨のように気にかかっていたエッセーがある。安部公房著「笑う月」(1975年11月、新潮社刊。その後1984年7月、新潮文庫)に収められた「藤野君のこと」である。「笑う月」は「夢のスナップショット」と称され、創作とエッセーの間を漂いながら書かれたような17編を集めた不思議な著作。「藤野君のこと」はその中でも白眉の1編とされている。安部公房が書いた戯曲「ウエー(新どれい狩り)」に出てくる、人間そっくりのどれい「ウエー」の飼育係・藤野君に実在のモデルがあったことをつづったエッセーで、こんな話である。未読の方はご注意を。
安部公房は終戦の翌年、満州からの最後の引揚船の中で藤野君という人物と知り合う。船は大きかったが、何しろ引揚者の人数が多いから、船内はすし詰めどころかイワシの缶詰なみの混雑ぶりを呈していた。居場所を確保するためには、常に体を横たえて突っ張らせていなければならない。そこで空間の争奪戦が起こるのだが、藤野君という人物だけは悠々と自分のスペースを確保している。昼はあぐらをかき、夜は大の字になって寝る。秘密は周囲の人間との取引にあった。藤野君はサッカリンと引き換えに、3人の人間から場所を買い取っていたのである。
物資のない時代、甘味料のサッカリンは貴重品どころか、最も確実で安定した通貨だった。目先のきく連中は財産をサッカリンに換えていたから、他にも当然、サッカリンを船内に持ち込んでいた人間はいた。領分をそれで売買しようとした者が藤野君以外にいなかったのである。双方の合意に基づく商行為であり、これだけでも藤野君の取引力は卓越していた。「事実、藤野君には、悪びれたところなど少しも見られなかった」と安部公房は書く――「中央付近、それも手摺際のいちばん見晴らしのきく位置に、広々と陣取って、悠然とあたりを見まわし、自由な姿勢を満喫していたものだ。見晴らしのきく場所は、同時に見られやすい場所でもある。見られやすい場所で、人目をひく行為をしているのだから、いやでも注目をあびざるを得ない」。
普通ならば嫉妬や敵意の対象となるはずだが、藤野君はそうではなかった。しかも粗末な食事の後で、何とチョコレートキャンディーを荷物から取り出してきてうまそうに舐め始めるのである。これは嫉妬や敵意をさらに強めさせる挑発的行為と取られかねないが、藤野君に対して暴行や略奪を試みたものはいなかった。安部公房はこう分析する。
「考えてみれば、塩水にちょっぴり海草を浮かせた汁いっぱいに、やせた繊維だらけの小指ほどの芋数本という、ぎりぎり限界線上の食事の後のことである。チョコレートキャンディーを妬むなど、思い上がりもいいとこだ。そんな大それた気持ちになんか、なれるわけがない。遠すぎる理想。目にしながらも信じられない、幻影のようなものだ」「彼はなかなかの戦術家でもあった。勝ち目がない、とあきらめたとたん、敵意があっさり羨望に変わってしまう、あの弱者の心理をよくつかんでいた」
本当にそんな心理になるものだろうか。大岡昇平や野間宏を持ち出すまでもなく、戦後派文学の主要テーマは「飢餓と犯罪」である。この状況下では当然「キャンデーを寄こせ」と暴動が起きて、藤野君は周囲の人間からリンチされてしまうはずではないのか。のどに刺さった小骨のように長年、気にかかっていたのはその点である。どうやら安部公房には、安部公房独自の論理があるようなのだ。
長年の疑問を解くヒントになったのは、他でもない。安部公房の一人娘にして医師の安部ねりが、2011年3月に父の思い出を「安部公房伝」に書いている(新潮社刊)。さすがに医師らしく、父親の文学について冷静に分析、記述している。その中にこんな一節があったのである。
「文学を他者との通路と考えていた公房はのちに、『通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと』と言っていたが、それは若い頃身につけた商売のコツでもあったろうし、思ったようには売れなかった『無名詩集』を売り歩きながら身にしみたことでもあったのだろう」。これは、安部公房の処女作とされる私家版の「無名詩集」が、親戚や知り合いを回ってもさっぱり売れなかったことを取り上げて語ったものだ。「『無名詩集』が売れなかったことは、自己の内心を吐露する詩という表現手段を選択したことに対する自己嫌悪のようなものをもたらしたのではないか」と、安部ねりは書く。
見事な指摘なので虚を突かれた。これを藤野君のケースに当てはめれば、その巧みな取引や弱者の心理のつかみ方は、要するに他者との通路を相手の方から掘り進める術に長けていたということになる。通路の手段はサッカリンやチョコレートキャンディーだが、それらを自分が所持しているという優越感によってこちらから掘り進むのではなく、それらを持っている自分を相手がどう見ているか、という劣等感を利用して向こうから掘り進んでいるのが、藤野君なのだ。だから暴動も起きない。
安部公房はこうまとめている――「そして、心ゆくまでチョコレートの香りを吸い込んだ一同は、しばしばぼくもその中の一人だったが、いま自分がこうして生きのびていられるのも、ひとえに藤野君のおかげだという満ち足りた気分にさせられて、それぞれ自分の輪郭よりも狭い領分へと、おのれを埋め込むために引き返して行ったものである」。藤野君は本当に実在の人物なのだろうか。通路を相手の方から掘り進めるという安部公房理論を証明するための創作なのではないか。そうも思えてくる。(こや)
2016年7月第71号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

新規登録古本
新規登録古本
新規登録古本
新規登録古本
7月5日の時点で、残りは10本。すでに達成は時間の問題となっているのが、米大リーグ、マイアミ・マーリンズのイチロー選手のメジャー通算3000本安打です。
6月に「日米通算4257安打達成」「ピート・ローズを抜く」と騒がれ過ぎましたから、いささか影が薄くなった感がありますが、日米通算はあくまでも参考記録に留めておくべきでしょう。本当に価値のあるのはやはりメジャー単独での記録です。ローズ4256本を筆頭に、タイ・カッブ4191、ハンク・アーロン3771……と、メジャー通算3000本安打の達成者は現在29人。7月中にも史上30人目にイチローが名を連ねるのは確実な情勢です。
話は変わって――ご記憶にある方が多いかもしれませんが、6月9日付の朝刊各紙で「113番新元素『ニホニウム』 理研が命名」のニュースが報じられました。理化学研究所の研究チームが合成に成功した新元素113番に対して、「ニホニウム」の命名権が来夏にも与えられるというものです。約100年前に一時期あって、その後抹消された元素名「ニッポニウム」以来の快挙で、読売新聞は「日本科学会の悲願が、ついにかなう」と報じました。
日本、そして日本人は素晴らしい。2つの世界的快挙を前に、改めて思いました。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第71回 「お守り」はダイナマイト
山川方夫

山川方夫と書いて「やまかわ・まさお」と読む。周知の事実であろうが、実はこの作家の本名は山川嘉巳という。20歳のとき、方夫のペンネームを初めて使った。その由来は、鏑木清方の「方」と梅田晴夫の「夫」から来ている。なぜかといえば、方夫の父は山川秀峰(本名・嘉雄)といって、鏑木清方や池上秀畝を師とする日本画家だった。また梅田晴夫は、方夫自身が慶應義塾予科英文科1年のときの担任で、その後も薫陶を受けた恩師だった。
芥川賞候補に4回、直木賞候補に1回上がったが、受賞はかなわず、将来を嘱望されたまま、わずか34歳で事故死してしまった山川には、純文学作家以外にも様々な顔があった。三田文学の編集者としての顔、放送台本作家としての顔、映画評論家としての顔。中でもショートショート作家としては、むしろこちらが本職ではないかと思うほどの傑作を残している。
今回はショートショートの代表作「お守り」を取り上げる。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。なお、引用は「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」(高崎俊夫編、2015年9月、創元推理文庫)によった。語り手の「僕」は、友人の関口二郎から「君、ダイナマイトは要らないかね」と持ちかけられる。なぜそんな物騒なものを関口が持っているかといえば、こんな事情による――ある日関口は、宴席の帰りに自分とそっくりな男を見かける。その男は、団地の階段を上ってE-305号室に帰っていく。そのE-305号室はまぎれもなく関口の部屋なのだが、入っていった別の男を、妻は全く不審に思わない様子だ。
黒瀬次郎という、関口とそっくりなその男は、同じ団地のD-305号室に住んでいた。今晩、棟を1つ間違えて、関口の部屋に帰宅してしまったのだ。なぜ関口の妻が気づかなかったかといえば、帰宅するやいなや黒瀬は、いつも関口がやっているように自分の部屋に引っ込んでしまったからである。関口と黒瀬が同じ「ジロウ」という名前であったことや、団地の部屋の作りが各室とも全く同じことも、疑念を抱かせなかった理由である。
ここから関口は考える――「黒瀬という男は、つまりぼくにとって、団地の無数の夫たち、玩具の兵隊たち、ぼくに似た同じようなサラリーマンの代表者みたいなものだったんだな。無数のもう一人の『ぼく』、その代表のようなものだった」と。団地の規格だけではない。「結局、ぼくらはそれが自分だけのものと信じながら、じつは一人一人、規格品の人間として、規格品の日常に、規格品の反応を示しているだけのことではないのか?」。そう考えた関口は、自分と他者を区別する「お守り」を手に入れる。それが鞄の中に忍ばせたダイナマイトだったのである。
しかし関口は、そのダイナマイトがもはや不要になったから譲ろうか、と語る。なぜなら「ぼくの独自性とは言えなくなってしまった」のだと。つい先ほど、バスの中でダイナマイトが爆発して乗客3人が即死したニュースが伝えられた。そのダイナマイトは死んだ乗客の1人――黒瀬次郎という男の鞄に入れられていたものだった。
以上が「お守り」のストーリーである。書かれたのは1960年4月で、三社連合という北海道新聞日曜版に掲載された。やがてこの作品は海外でも高く評価されるようになり、アメリカの国民雑誌「ライフ」1964年9月11日号の日本特集ほか、イタリアやソ連でも翻訳掲載されるようになる。
重要な点は、関口も黒瀬も決してエキセントリックな人間ではなく、どちらもお互いの存在を意識する前は常人であったことである。ともに規格品の1人に過ぎない。その規格品から抜け出ようとして関口はダイナマイトを心の拠りどころにする。それが自分の独自性だと思っていたら、何のことはない、黒瀬もダイナマイトを自分の独自性として鞄に忍ばせていた。つまり団地の全住人どころか、日本中、世界中のすべての人間が、規格品からの脱却のためにダイナマイトを身に着けているのだと言っているわけで、それはゾッとするほど不気味なシチュエーションである。
さらに不気味なのは、それがもはや独自性にならないことに関口が気づいてしまった点であろう。関口が気づいたことだから、世界中のすべての人間もやがて気づくだろう。ダイナマイトが原爆に変わっても、水爆に変わっても、それらはすぐに独自性を失ってありきたりの規格品と化すに違いない。「お守り」が書かれたのは、米ソによる東西冷戦の真っただ中という時代だから、山川にそうした政治的寓意の意識が全くなかったとはいえない。しかし、根底には20世紀のある偉大な哲学者の提唱する思想が流れているようにも思うのだ。いうまでもなく当時、世界中を席巻していたジャン=ポール・サルトルの実存主義である。
実存主義――存在は本質に先行するという思想はたいへん難しい。食べ物をすくうためのものという目的(本質)のあるスプーンのような存在を「即自存在」と呼び、それに対して人間は実存が先にあり、本質は自ら選び取っていかねばならない「対自存在」である、と実存主義は主張する。そのスプーンを山川はここでダイナマイトに置き換えたのではないか。爆発するという目的のある即自存在=ダイナマイトと、規格品としての実存から脱却して本質に迫ろうとする対自存在=人間との関係に思い至ったとき、「お守り」という作品の成功は約束されたも同然ではなかったか。そういえば、山川方夫の慶應義塾大学仏文科の卒業論文は「ジャン・ポオル・サルトルの演劇について」であった。そんなことも、いま思い出した。(こや)

2016年6月第70号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)

5月18日付の新聞各紙に載った「国立西洋美術館 世界遺産へ」という記事に目が引きつけられました。読売新聞首都圏版朝刊はこう報じています。
「国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関『国際記念物遺跡会議』(イコモス、本部・パリ)は17日、国立西洋美術館(東京都台東区)を含む7か国17資産で構成される『ル・コルビュジエの建築作品』を世界文化遺産に登録するようユネスコに勧告した」。7月にトルコで開かれるユネスコの世界遺産委員会で正式登録されることは、ほぼ確実な情勢のようです。
国立西洋美術館は、実業家の松方幸次郎が欧州で収集した美術品(いわゆる「松方コレクション」)を収蔵するために1959年に建設された建築物。今回のユネスコへの勧告は一括登録で、要するにル・コルビュジエが各国で手掛けた多くの建築物の中に日本の美術館が1つ含まれていたという話なのですが、地上3階、地下1階のこの建築物の設計を世界的な建築家に委ねた、当時の関係者の慧眼は評価されるべきでしょう。
これに刺激を受けたのでしょうか、5月21日付の読売新聞首都圏版夕刊にも「丹下健三の設計した代々木第1体育館を世界文化遺産に登録しよう」という働きかけが日本国内にあることが報じられました。日本の建築が世界に認められる――日本人としてとてもうれしいニュースです。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第70回 わが文学はチョウチンアンコウ
梅崎春生

梅崎春生(1915~1965)といえば、「桜島」「日の果て」「幻化」などを書いた、第一次戦後派を代表する小説家だが、同時に随筆の名手でもあった。昨年刊行された「悪酒の時代/猫のことなど」(2015年11月、講談社文芸文庫)は、梅崎が戦後に書いた随筆を集めた傑作集。その中に「チョウチンアンコウについて」という1編がある。執筆は昭和24年10月。文庫本にしてわずか3ページに満たない小品である。
梅崎は、チョウチンアンコウという深海魚の「雄と雌との関係について、寺尾新博士が書いた文章をよみ、私は大層面白かった」という。要旨は次の通り。頭の先から長い鞭のようなものが生えていて、光を放つのは、チョウチンアンコウの雌のほうである。雄はどうかというと、チョウチンを持たず、大きさも雌の10分の1に過ぎない。ではこの平凡な雄がどうやって立派な雌の亭主となるか。梅崎はこう書いている――「彼はただじっとその機会を待っているだけなのである。そして偶然に雌が自分に近づいてくると、彼は雌の背中であろうが、頭であろうが、ところかまわずにいきなり唇で吸いつくのである。吸い着いたら、それきりである。どんなことがあっても離れない。雌が泳ぐままに、ぶら下って動く。そしてここに変ったことがおこる」
変わったこととは、雌の体の皮が延びて、彼の唇とつながってしまう。つまり雄は独立した魚ではなくなって、雌の体の一部になってしまうのである。唇をふさがれて食物をとるすべを失い、役に立たなくなった消化器官がまず消える。続いて諸器官が、眼が、脳が姿を消していく。すっかり雌の体の一部と化した雄は、血管も雌とつながり、それを通じて全部を雌から養われるようになる。やがて彼は、雌の体に不規則に突起したイボのような形にまで成り果てる。しかし――と梅崎は続けるのである。
「イボにまで成り下っては、彼は自身の存在の意義を失ったようにも見えるが、ただひとつだけ器官を体の中に残しているのである。それは精巣である。精子をつくるために残留しているのだ。雌がその卵を海中に産み放すとき、ほとんど精巣だけとなった彼は、全機能を発揮して、二階から目薬をさすように、その精子を海中に放出する。深海であるから、流れの動きがほとんどないので、その精子は洗い流されることもなく、雌の卵にうまくくっつくのである」
梅崎は「この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない。どういう感動かということは、うまく言えないけれども」と締めているが、感動を禁じ得ないのはこの随筆を読む者も同じだろう。寺尾新(てらお・あらた)は大正、昭和期の高名な動物学者で、水産動物の増殖と加工などの研究で知られる。「優生学と生物測定学」「動物はささやく」など動物学を分かりやすく説いた多くの著作があり、「東京物語」などで知られる女優の東山千栄子とは縁戚関係にある。その寺尾博士の研究を梅崎はなぞっているのだが、なぜそれが「大層面白かった」のだろう。つまりチョウチンアンコウのエピソードは、取りも直さず梅崎文学の本質にかかわるテーマなのではないか。
梅崎春生の小説にはよく「分身的存在」が登場する。それは多くの評者が指摘するところで、「悪酒の時代/猫のことなど」でも解説の外岡秀俊がこう書いている。「彼の作品に共通しているのは、主人公や『私』が、第三者に対して不意に嫌悪感や忌まわしさを覚え、怒りや憎しみに駆り立てられるという構図だ。そして、そうした獰猛な感情に囚われるのは決まって、主人公がその第三者に、自らの『分身』を見出したときなのである」。「桜島」の暴力を振るう吉良兵曹長と私の関係しかり、「日の果て」の逃亡する花田中尉と追う宇治中尉の関係しかり。ユーモア小説の系列にもその傾向は見られ、直木賞受賞作「ボロ家の春秋」の性格から境遇まですべて正反対の同居人・野呂旅人も、僕と合わせ鏡のような分身関係にある――と外岡は指摘する。
しかしいちばん忘れてはならない分身関係は、遺作「幻化」の五郎と丹尾であろう。東京の精神病院から抜け出し、鹿児島、枕崎を経て自分の生まれ故郷・坊津に向かうのが五郎。その過去への旅の途中で出会うのが映画のセールスマン・丹尾。2人はその後、別行動を取るが、やがて阿蘇山の麓で再会する。丹尾は妙なことを言い出す。自分はこれから火口を一周するが、その途中で火口に飛びこむかどうかを2人で賭けようというのである。丹尾は火口に向かって歩き出す。望遠鏡をのぞく五郎。丹尾は火口の淵で止まる。それを見ているうちに、五郎は丹尾を見ているのか、自分を見ているのか分からなくなってくる――。
梅崎が「幻化」を書いたのは戦後20年目に当たる昭和40年。戦争の記憶も風化してきた時代であった。五郎は精神病院から脱走して自分の過去をたどる旅に出るが、戦時の記憶は故郷からもすっかり消え失せている。ということは「桜島」「日の果て」で描かれたような、軍隊における暴力的な分身関係もようやく払拭できたはずではないか。そんな小説にも、なぜか丹尾という分身が登場する。
つまりはチョウチンアンコウなのではないか。戦争が終わり、時代が変貌していく中で、自分を殺してひっそりと身を潜めていたはずの雄は決して死んでいない。生殖というただ1つの役割を果たすことによって存在意義を持つ。そこにおいて雌と雄はもはや本体と付属物ではなく、それぞれが有機的にかかわり合う分身関係となる。戦後という時代をしっかりと生き始めた梅崎は、自分の文学の本質をチョウチンアンコウに見たのだと思う。(こや)
2016年5月第69号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)



5年前の東日本大震災の傷も癒えない2016年4月14日午後9時26分ごろ、熊本県熊本地方で震度7、マグニチュード6・5の大地震が発生しました。実はそれは前震であって、2日後の16日午前1時25分ごろ、今度は震度7、マグニチュード7・3の本震が同地方で起こりました。一連の地震活動で震度7を2回記録するのは観測史上初めてのことだそうです。その後も震度1以上の地震の発生は1000回以上に及んでいます。
5月1日現在、一連の熊本地震で亡くなった方は49人。そしてエコノミークラス症候群などによる「震災関連死」とみられる方も17人にのぼります。安否不明の方が1人。負傷された方、そして現在も避難生活を送っている方は数え切れません。建物の損壊、交通網やライフラインの寸断などを含めて、熊本、大分地方に甚大な被害をもたらした今回の地震。亡くなられた方々、被災された方々に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
地震の発生から半月以上が経ちました。報道が震災一色となる中で、見過ごしてはならない記事が新聞各紙に載っていました。「三菱自動車が軽自動車の燃費データ偽装」(4月21日)、「神戸・新名神高速道路の建設現場で橋桁落下、2人死亡」(23日)。どんな非常時であっても不正や事故は起きるのです。それを逃さず報道する日本のジャーナリズムを評価したいと思いました。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第69回 汝それをシャングリラと呼ぶか
ジェームズ・ヒルトン

ポストモダン文学に詳しい評論・翻訳家の風間賢二が書いた「ジャンク・フィクション・ワールド」(2001年7月、新書館刊)は、古今東西の大衆小説について格好の道案内となる好著だが、第7章「失われた世界を求めて」の中にこんな指摘があるのに注目した。「本書(注:「失われた地平線」)の創作時期がふたつの世界大戦の狭間であったことを思うと、この<ロスト・ワールド>=<ユートピア>小説が叡智と礼節と中庸の精神を説いて、人類の滅亡の影に怯えていた英米の人々に希望と勇気を与えたことは容易に想像がつく」。
「失われた地平線」(原題:LOST HORIZON、1933年刊)は、言うまでもなくイングランドの作家ジェームズ・ヒルトンの代表作。英国領事、英国副領事、アメリカ人、東方伝道師の女性の4人を乗せた小型飛行機が操縦士に扮したハイジャッカーに乗っ取られる。チベットのある山頂に到着したところでハイジャッカーは急死。そこにこつ然と現れた中国人によって、4人は高峰の谷沿いにあるシャングリラという寺院に連れて行かれる。シャングリラに住む人々は普通の人々よりもずっと長生きで、歳をとるのが非常に遅い。元は18世紀初頭に宣教師が建てた僧院であったが、そこにラマ僧などが集まってきて、やがて図書館やセントラルヒーティングなど最新式の設備が整えられた場所になった。要するにここはただの僧院ではなく、世界中の知識や先端文化が集まる理想郷(ユートピア)となっているのである。
ヒルトンがこの小説を発表してから、シャングリラは架空の地名を超えて理想郷の代名詞となった。外界から隔絶されたヒマラヤ奥地のミステリアスな地上の楽園として、つまりは桃源郷に匹敵するような存在となったのである。この小説は2つの大戦の間に書かれている。したがってこれは戦争による世界の滅亡に危機感を持った人々に勇気を与えるユートピア小説である――と風間は位置づける。これはなかなかの卓見であろう。
風間はさらに第2次世界大戦後にロスト・ワールド小説が書かれなくなった理由を、ほぼこういった趣旨で説明している。第2次世界大戦におけるヒトラー独裁政権の台頭や広島、長崎への原爆投下による世界の変貌で、どこかに戦争のない楽園やユートピアが存在するという幻想が打ち砕かれたのではないか。また航海・航空技術の発達は、地球上から人跡未踏の秘境を無くしてしまい、スプートニクが打ち上げられてからは、ロスト・ワールドの舞台は他の惑星に移らざるを得なくなった。「したがって、『失われた地平線』は、19世紀に栄えた秘境冒険ロマンス<ロスト・ワールド>の伝統を継承する最後の作品と言えるかもしれない」と結んでいる。
なるほど、ロスト・ワールド小説の衰退とほぼ同時にスペース・オペラ小説が台頭してくることを思えば、その通りかもしれない。しかし――ちょっと突飛な思いつきをお許し願えれば、ロスト・ワールド小説は実は形を変えて現在も生き続けているのではないか。例えばイギリスのお家芸である学園小説というジャンルがある。英国のパブリックスクールなどに通う生徒たちの青春や、教師の生涯などが描かれる作品の総称で、「大転落」と邦題が付けられているイーヴリン・ウォーの処女作などが好例である。他ならぬジェームズ・ヒルトンがそのジャンルのとてつもない傑作を書いているではないか。「チップス先生、さようなら」(原題:GOOD-BYE,MR.CHIPS、1933年刊)である。まさしく、ここに出てくるブルックフィールド校がロスト・ワールドであり、主人公のチップス先生や生徒たちがシャングリラの住人のように思えるのだ。
今回、新潮文庫で白石朗による待望の新訳(2016年2月刊)が出たのをきっかけに、改めて読み返してみた。1870年、パブリックスクールの名門校とまではいかないが、それなりに伝統のあるブルックフィールド校に転任してきた平凡な教師チッピング(チップスはあだ名)の数10年間にわたる教師人生を描いている。同書解説を書いている杉江松恋によれば、「凡庸な学校に勤務する凡庸な教師は、決して自分の立場に腐ることなく、ただ実直に職分を果たし続け、何千人という生徒の教育に当たった。その胸に勲章が飾られることはなく、輝かしい名声とも一切無縁であった。しかし卒業生たちは彼の名を決して忘れず、それどころか彼こそがブルックフィールド校そのものであると見なすようにさえなっていった」ということになる。
チップスは65歳を迎えた1913年に教師を引退するが、その後もブルックフィールド校の近くの家に間借りして住み続け、1933年に亡くなる。1908年、60歳になったときには、当時のロールストン校長から「本校における職責を果たしておられない。教育方法も杜撰で旧態依然だ」と退職勧告を受けるが、生徒や理事会はチップスの全面的な擁護に回り、老教師は学校に残ることになる。ここにあるのは「叡智と礼節と中庸の精神」であろう。ミスター・チッピングは、すでに本人が意識する以上にミスター・ブルックフィールド校になっていたのである。
「チップス先生、さようなら」はかつて2回、映画化されている。映画は若い妻キャサリン(死別。以後チップスは独身を通した)とのロマンスを重視したドラマになっていたが、原作のポイントは時代から取り残されたような教師さえも受容し評価する、英国パブリックスクールの歴史と伝統のほうにあるだろう。チップスにとってブルックフィールド校はまさに理想郷であり、シャングリラだったのだ。(こや)
2016年4月第68号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)



あれから50年も経つとは、いささか驚きます。「あれ」とは1966年の「頭の体操」第1集の刊行です。ハウツー書を数多く手がけた光文社カッパ・ブックスの1冊として出版されました。著者の多湖輝さんは当時、千葉大学教育学部の助教授。「東大出の大学の先生がパズルの本を書いた」と、硬派の読書人から揶揄されたものです。
ところがこの本が200万部を超える大ベストセラーになってしまいました。すぐにシリーズ化され、2001年の第23集まで累計で約1200万部を売り尽くすなど、戦後出版史にさん然と輝く金字塔を打ち立てました。「頭の体操」という言葉も、一介の本のタイトルを超えてパズルやクイズの代名詞となりました。
教授に昇進した後も多湖さんの勢いはとどまるところを知りません。専門分野でも、難しい理論を一般向けに分かりやすく解き明かす「深層心理術」「子どもを叱るうまい方法」などの著作を連発するなど、まさにトップランナーとして、50年間にわたって心理学、教育学の普及に努めました。
トップランナー、90歳で死す――。2016年3月15日、多湖さんの訃報が伝えられました。すでに同月6日に亡くなっていて、葬儀は近親者で営まれたとのことです。心からご冥福をお祈りいたします。
本に関するコラム「たまたま本の話」
第68回 「恐怖の黒いカーテン」再読
ウィリアム・アイリッシュ

「黒いカーテン」ではなくて、「恐怖の黒いカーテン」の話をしたい。巨匠ウィリアム・アイリッシュが1941年に発表した傑作サスペンス中編である。
宇野利泰訳の創元推理文庫版「黒いカーテン」①が刊行されたのは1960年2月で、これはその2年前に出た東京創元社の「世界大ロマン全集第50巻黒いカーテン」②(1958年刊)を文庫化したものだった。それを福島正実がジュニア向けにリライトし、あかね書房から「少年少女世界推理文学全集NO.9恐怖の黒いカーテン/アリスが消えた」③として刊行したのは1963年。これが後に同書房から「推理・探偵名作シリーズ3恐怖の黒いカーテン」④と新装版で再刊されることになる(1973年12月)。
今回、上記の一般向け①とジュニア向け④を何10年かぶりに再読して、面白い違いに気づいた。さまざまな配慮からか、登場人物やストーリーの設定が一般向け(つまり原作)と大人向け(つまりリライト)で微妙に変わっているのである。まずはそのことを指摘しておきたい。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
ティラリー・ストリートを歩いていた主人公フランク・タウンゼントは、頭を打ったせいでかつての記憶を取り戻した。ところが記憶喪失症にかかっていた3年間の記憶が逆に失われてしまう。この3年間、自分が何者として何をしていたのか、全く思い出せない。彼はぶじ会社と家庭に復帰するが、ある日、彼に付きまとう謎の人物の存在に気づく。謎の人物は、とうとう彼の勤務先や自宅を付き止めてしまう。身の危険を感じた彼は、妻の協力で自宅を脱出する。一人で行った先はティラリー・ストリート。彼が記憶を取り戻した街だった。そこで彼はいくつかのヒントをたぐっていき、失われた3年間に自分がニュー・ジェリコの町にいたことを知る。恩人である富豪を殺した罪で逃亡中の身だったのだ。つまり彼を追っていた謎の男は警察だったのである。
後半はニュー・ジェリコの町を舞台に、自分が無実の身であることを証明する謎解きになる。実は富豪の妻と弟が結託して富豪を殺し、罪をタウンゼントになすりつけたのだ。ティラリー街で知り合った女性(富豪の邸宅のお手伝い)とともに、真相究明のため相手の懐に飛び込んでいくタウンゼントだったが、逆に捕らわれの身となってしまう。真犯人である富豪の妻と弟の手によってあわや殺される――という間一髪のところで、火事が起き、続いて警察が乗り込んできて、助け出されるタウンゼント。邸宅には身動きのできない富豪の父親がいた。事の真相に気づき、目のまばたきをモールス信号代わりにしてタウンゼントに伝えていたのだが、残念ながらその火事で焼死してしまった。タウンゼントを助けるために捨て身で火事を起こしたのは彼だったのだ。彼の理解者だったお手伝いの女性も、真犯人の弟も死んでしまったが、タウンゼントの濡れ衣は見事に晴れたのである。
原作のストーリーは以上である。リライト版ではお手伝いの女性が少年に変わっている。原作では主人公のタウンゼントとその女性が愛人関係にあったという設定であった。ジュニア版としてこの変更は致し方ないところだろう。原作の女性は死んでしまうが、この少年は助かるところに救いがある。しかしジュニア版でタウンゼントの妻が妹に変わっているのは、ちょっと意識し過ぎか。子どもの読者に夫婦という設定はなかなか理解しにくいから、より理解しやすいであろう兄と妹に変えたのだろうか。いずれにせよジュニア版の出た昭和30~40年代の日本では、少子化の今と違って兄弟姉妹がいる家庭が多かった。成人した兄と妹が同じアパートに一緒に暮らす設定もごく自然に受け入れられたのかもしれない。
「恐怖の黒いカーテン」はサスペンス小説としてのツボを押さえた秀作で、原作でもリライト版でも十分に堪能できる。しかしその最大の魅力はたった1つに集約されるように思う。記憶喪失という設定である。
記憶喪失は何万人に1人というレアケースの症例といわれるが、実は1940年前後の文学にはけっこう登場する。有名なのはジェームズ・ヒルトンの「心の旅路」だろうか。1941年に出版されてベストセラーとなり、翌年には映画化された。第一次世界大戦の終盤(1917年)、フランス戦線で傷つき記憶喪失になった英
国陸軍大尉と踊り子のすれ違いの恋と、最後に大尉の記憶がすべて戻って結ばれるまでの長い歳月を描いた甘い甘いメロドラマである。重要なのはメロドラマの衣を借りて、戦争が原因で傷を負い、引き裂かれていく人々の運命を描いている点だろうか。
「恐怖の黒いカーテン」も同じく1941年の刊行である。こちらは戦争のセの字も出てこないサスペンス小説であるが、第一次世界大戦が終わってホッとしたのもつかの間、今度は1939年に第二次世界大戦が勃発して――という時代を舞台に書かれている。フランク・タウンゼントは遠洋航海でよく使われるモールス信号を読解するし、左の手首に錨の刺青もしている。ポパイを思えば分かるように、錨の刺青は海兵隊上がりのトレードマークである。しかも年齢は27~28歳。タウンゼントは海軍に従軍していた時代に傷を負ったことが原因で、除隊後の1938年に記憶喪失にかかったのではないか。そんなことも推測されるのである。
ベトナム戦争後に帰還兵の後遺症を描いた作品が多く書かれたことは記憶に新しいが、1940年代の文学にも2つの世界大戦によって後遺症を受けた人物が登場する。その象徴が記憶喪失なのではないだろうか。(こや)

PDFファイルを閲覧するには、アドビシステムズ社製の「Adobe Reader」という無償利用可能なアプリケーションが必要です。Adobe Readerを別途入手する必要がある場合は、アドビシステムズ社からダウンロードしてください。

* ページの一番上へ *
2016年3月第67号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第67回 練り上げられた短編「決断の時」
スタンリイ・エリン
2016年2月第66号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第66回 名作「雨」を斜めから読むと
ウィリアム・サマセット・モーム
2016年1月第65号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第65回 女性とサソリとステッキの「博物誌」
ロアルド・ダール
2015年12月第64号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第64回 名探偵マキアヴェリ
トマス・フラナガン
2015年11月第63号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第63回 ユダヤ系安楽椅子探偵のお手並み
ジェイムズ・ヤッフェ
2015年10月第62号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第62回 本格の中に本格があった
エラリイ・クイーン
2015年9月第61号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第61回 短編「お告げ」に影を落とすもの
シャーリイ・ジャクスン
2015年8月第60号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第60回 虎の皮を被る話のルーツ
アルフレッド・エドガー・コッパード
2015年7月第59号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第59回 彼らは隣人も撃ったか?
ホレス・マッコイ
2015年6月第58号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第58回 「ウィリアムとメアリー」といえば
ロアルド・ダール
2015年5月第57号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第57回 「赤毛連盟」とウイリアム・モリス
アーサー・コナン・ドイル
2015年4月第56号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第56回 キャラメルが運んできた文化
カバヤ児童文庫
2015年3月第55号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第55回 「細い線」のミステリー?
エドワード・アタイヤ
2015年2月第54号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第54回 「輪廻の蛇」と性転換
ロバート・アンソン・ハインライン
2015年1月第53号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第53回 70年代アメリカを「銃撃!」する
ダグラス・フェアベアン
2014年12月第52号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第52回 新訳で読む「賢者の贈りもの」
オー・ヘンリー
2014年11月第51号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第51回 ハーレクインとフェミニズムが握手する
尾崎俊介
2014年10月第50号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第50回 「大聖堂」を読み解けば・・・・・・
レイモンド・クリーヴィー・カーヴァー・ジュニア
(レイモンド・カーヴァー)
2014年9月第49号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第49回 「長方形の部屋」がはらむ問題
エドワード・デンティンジャー・ホック
2014年8月第48号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第48回 帰ってきた「かもめのジョナサン」
リチャード・バック
2014年7月第47号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第47回 「殺人演技理論」とスタニスラフスキー・システム
ロバート・ブロック
2014年6月第46号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第46回 ソーセージ並みに売れた名作
ガブリエル・ガルシア=マルケス
2014年5月第45号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第45回 フランス・ユーモア作家の教養
ピエール・ルイ・アドリアン・シャルル・アンリ・カミ
2014年4月第44号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第44回 われ酒の酌をする侍者たらん
ヘクター・ヒュー・マンロー
2014年3月第43号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第43回 アダムとイブとテレビの話
ジャージ・コジンスキー
2014年2月第42号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第42回 虹をつかむジェイムズ・サーバー
ジェイムズ・サーバー
2014年1月第41号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第41回 ジャック・リッチーの短編作法
ジャック・リッチー
2013年12月第40号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第40回 マラマッドは古典作家か
バーナード・マラマッド
2013年11月第39号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第39回 安部公房が嫉妬した作家
エリアス・カネッティ
2013年10月第38号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第38回 「猿の手」の謎と伏線
ウイリアム・ウイマーク・ジェイコブズ
2013年9月第37号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第37回 「8月の暑さのなかで」を読む
W・F・ハーヴィー
2013年8月第36号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
「第36回 愛の詩人ジョン・コリア」
ジョン・コリア
2013年7月第35号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第35回 新しい「Someone Like You」
ロアルド・ダール
2013年6月第34号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第34回 ヒッチコックお気に入りの作家
ダフネ・デュ・モーリア
2013年5月第33号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第33回 殺人鬼がレギュラーとは・・・
ロード・ダンセイニ
2013年4月第32号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第32回 ウイリアム・アイリッシュの魅力
ウイリアム・アイリッシュ
2013年3月第31号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第31回 ベストテン選びは辛口で?
アガサ・クリスティー
2013年2月第30号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第30回 ハヤカワ・ミステリは「よい悪書」
丸谷才一
2013年1月第29号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第29回 ノーベル賞を拒否した作家
ジャン=ポール・サルトル
2012年12月第28号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第28回 「禁じられた遊び」のミシェル
フランソワ・ボワイエ
2012年11月第27号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第27回 侮るなかれマック・レナルズ
マック・レナルズ
2012年10月第26号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第26回 Heaven Can Wait!
C・B・ギルフォード
2012年9月第25号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第25回 「ラヴデイ氏の短い休暇」が描くもの
イーヴリン・ウォー
2012年8月第24号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第24回 南アフリカ発の傑作短編
アーサー・ウイリアムズ
2012年7月第23号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第23回 「うしろを見るな」の迷宮世界
フレドリック・ブラウン
2012年6月第22号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第22回 「タイムマシン」を再読すれば
ハーバート・ジョージ・ウェルズ
2012年5月第21号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第21回 忘れられた「エイルウィン物語」
ウォッツ・ダントン
2012年4月第20号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第20回 シュロック・ホームズをご存じ?
ロバート・L・フィッシュ
2012年3月第19号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第19回 今に生きるシャーロック・ホームズ
アーサー・コナン・ドイル
2012年2月第18号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第18回 史上で最も偉大な短編
フレドリック・ブラウン
2012年1月第17号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第17回 ちょこっとドストエフスキー
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
2011年12月第16号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第16回 マリリン・モンローとベン・ヘクト
ベン・ヘクト
2011年11月第15号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第15回 異色の短編「信・望・愛」
アーヴィン・S・コッブ
2011年10月第14号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第14回 史上最高の名探偵はだれか
ハリイ・ケメルマン
2011年9月第13号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第13回 ロンドンの霧が書かせた傑作
トマス・バーク
2011年8月第12号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第12回 カーのトリックに物申す?
ジョン・ディクスン・カー
2011年7月第11号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第11回 池澤夏樹が読みほどく「白鯨」
ハーマン・メルヴィル
2011年6月第10号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第10回 ポーの2匹目の黒猫
エドガー・アラン・ポー
2011年5月第9号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第9回 またもやチェスタトン
ギルバート・キース・チェスタトン
2011年4月第8号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第8回 再びチェスタトンについて
ギルバート・キース・チェスタトン
2011年3月第7号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第7回 チェスタトンと「見えない人」
ギルバート・キース・チェスタトン
2011年2月第6号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第6回 ロアルド・ダール、創作の秘密
ロアルド・ダール
2011年1月第5号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第5回 エリンとビアスの奇妙な関係
スタンリイ・エリン
2010年12月第4号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第4回 ヘンリイ・スレッサーの短編技法
ヘンリイ・スレッサー
2010年11月第3号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第3回 ジョルジュ・ランジュランはスパイだった
ジョルジュ・ランジュラン
2010年10月第2号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます)
本に関するコラム「たまたま本の話」
第2回 「思考機械」とジャック・フットレル
ジャック・ヒース・フットレル
2010年9月第1号はこちらからどうぞ (pdfファイルで開きます) 
本に関するコラム「たまたま本の話」
第1回 3つの「異色作家短篇集」
ロアルド・ダールほか